中高年になって分かったこと
もしも今、十代に戻れるなら、本気で「東大」を目指すだろう。
そして東大は無理だとしても、ある程度知名度がある大学に身を置くことを目指す。
そのラインがどこなのかは、大学進学の目的や役割の感じ方だが、「〇〇大学出身です」と言った時に相手から期待されるか否かがポイントだと思う。
もっと本気で、主導的に活躍したいなら、もう国内の大学で十分なのかは判断が難しい。
と言うのも、コロナ禍や自然災害、世界的な経済の衰退を考慮すると、もう国内の経済状況だけで安全性を確保できるとは思えないからだ。
ネットニュースなどで、時々海外の有名大学に合格した高校生が紹介されていたりするが、彼らには自分の意志で選択し、未来を切り開くだけの環境が与えられるのだと信じたい。
では、そこにたどり着けなかったこみちを含む一般人は、前提として「生き残るために何をするべきか?」を意識しておかないといけない。
「〇〇屋さんなりたい」
昭和時代の子どもたちなら、そんな想像を夢見たはずだが、今の時代に個人商店を営む大変さは誰しもがよく知っていることだろう。
大学に進学して感じるのは大学名を告げた時に、相手も真剣に話を聞いてくれることだと思う。
個人的には大学合格には意味が合って、「決められたルールに従える力」を示す役割があると感じている。
社会に出て改めて歴史などに興味を持つ時、学生時代に行っていた暗記学習がそれほど重要ではなかったとも感じるけれど、でもその当時に「やり遂げた」という実績が、社会に出た時にはその人のポテンシャルを示す指針になる。
地元を離れてこそ気づく生まれ故郷の温かさ
最初に示した通り、昔とは社会構造が全く異なるから、「努力」も目的や意図を考えないと無駄になってしまう。
イメージとしては、昭和時代、100人中上位10人が大学に進学し、医師などの職業に就いた。
上位50人くらいまでは大学や専門学校に進み、更なる知識や技術を手に入れた。
ではそこに入らなかった人たちはどうしたのだろうか。
地元の企業や公務員となり、住み慣れた町で暮らしながら、安定した生活を手に入れた。
特に地方都市に暮らし場合、20代で結婚し、戸建て住宅を手にいて幸せな家族ができる。
上京し大学に進んだ同級生が地元に戻った時に、家族連れの彼らがどれだけ幸せを手に入れたのかを肌で感じるだろう。
ある意味で、大学進学は安定した暮らしとの引き換えみたいなものだった。
だからこそ、少しでも知名度や評判のいい大学を目指さないと、一般的な知識や技術を学ぶだけなら圧倒的に地元という満たされた環境下で生活する良さを捨てた意味がなくなってしまう。
地方都市で暮らすことを選ぶという選択
東京に暮らしていると、その利便性や活気が日本各地でも同様に感じる。
しかし、人口減少の波は確実に押し寄せていて、特に地方都市では衰退の色も見え始めた。
ある意味、東京は特殊で、東京を地元としている人と、こみちのような夢を持って集まった地方出身者が一緒に暮らしている。
こみちは成城という街を知らなくて、知り合いが「僕は成城だよ」と教えられた時に「へぇ、そうなんだ」と答えた。
とてもいい奴で、人柄が好きで、親しい友人になったけれど、それからずっと後になって彼の両親や兄弟が芸術家だと知って驚いた。
当時、彼はBMWに乗っていた。
当然だけど、こみちは車などもっていなくて、バイトで手に入れた125ccのバイクが宝物だった。
「初めての車が外車なんだね!」
「でも中古車だよ」
「じゃあ、買えるものなんだ…」
それくらい、物の値段や都心で車を維持することが大変かも知らなかった。
後々になって教えてくれたが、嫌味ではなく「成城」というのは彼ならの付き合い方の目安だったそうだ。
何も知らない田舎者のこみちは、何も知らずに彼といつも遊んで、都内や横浜など、いろんな場所を段々と知っていった。
その時に思ったことも、田舎から上京するならもっと勉強しておけばということだった。
そもそも、都内のしかも一等地で広い敷地にアトリエまである家にする人と知り合いになれるのは、大学進学が手っ取り早い。
それがアメリカやイギリスの大学なら、もっとカルチャーショックを受けただろうし、若い頃ならいろんなことを吸収できたと思う。
しかもそれは十代の内に成し遂げるから意味があることで、こみちのような中高年になってしまうと気づくてももうあの頃のような感じで仲良くなれたりはしない。
かなり話が脱線したけれど、夢を掴むために東京を目指したり、海外を目指すなら、悔いが残らないくらい今を精一杯頑張ることだ。
そして田舎に残って生きることを選ぶなら、幸せを満喫した安定した暮らしを手に入れたい。
確かに大手企業と地方の会社では、仕事内容に差があることも否めない。
でも、どちらが良くて悪いかではなく、生き方の違いだと思う。
お気づきだと思うが、成城のような街で暮らして来た人の当たり前とこみちの生活レベルは同じではない。
真似しようにも、ありとあらゆる面で違いがあり過ぎる。
ある意味、「なぜそうするのか?」から違うのだ。
こみちは、自分で手に入れなければ掴めない物を、彼は当たり前に子どもの頃から慣れ親しんでいたのだから。
それを理解しておくと、どう生きるべきかも分かるだろう。
こみちはどこか中途半端だから、中高年の今になって分かったことも多い。
十代に戻ってできることはもう無理だけど、今から生きる上でどう努力すると良いのかを考えたい。