中高年の人生振り返り 自由と法律で話してみよう!

 法律って何?

改めて、「法律」って何かを再確認しておこう。

似た言葉に「憲法」や「条例」などがあるけれど、厳密には役割や権利の所在が異なる。

こみち自身の知識不足もあってその内容に誤解、誤認もあるけれど、簡単には、国会で作るルールを「法律」とするなら、「国民」が「国」に定めたルールを「憲法」と言い、都道府県や市区町村などの自治体が定めたルールを「条例」というのだろう。

ここで取り上げたいのは、「法律」の種類や内容ではなく、社会における約束事としての「ルール」としての「法律」だ。

つまり、「歌を歌いたい人」と「歌を聴きたくない人」が矛盾状態になった時に、その解決法を法律で導くという意味合いだ。

まず家庭内の話なら、法律を持ち出すまでもなく、「歌わせろ!」と「静かにして!」のどちらがその場で効果的だったかだろう。

言えば、歌っても問題ない場合や、何となく歌えない雰囲気になるからだ。

では工場や店舗などの場合には、騒音規制法があって「法律」で定められている。

一方でご近所トラブルになると、大家さんや管理人さんなどの第三者がいる時は相談することになる。

ただ、全国共通の法律として個人間の生活音を規制するものはなく、各自治体の対応に委ねるしかない。

ここで再確認したいポイントは、「法律」も完全体ではなく、ある意味でそれぞれの思いやりで譲り合う社会だということ。

「自由」とは何か?

「自由」を考えると、あまりに捉え方が広いので、法律との対比で考える。

例えば自分で借りたマンションの一室で、夜中までテレビを観て「逮捕」されることはないはず。

なぜなら、「夜中まで起きていること」や「テレビを観ること」が違法行為ではないから。

ある意味、それらのような違法行為に当たらない範囲で行うことが、自分の意思決定でできることを「自由」というのでしょう。

ただ、「歌いたい」と思った時に、家族人から「静かにして」と言われて、どうするのかはもう法律とも自由とも関係なくて、生きているなら譲るべきか譲られるべきかになる。

お金持ちと自由の関係

ある事業で大成功した人が、一代で大金持ちになった。

でも、そこに到達する過程で、人を裏切り、失望させた経験があったとしよう。

大金持ちになったことで生活は何不自由ないし、新しく仲間もできて幸せを満喫できていた。

ふと、「あの時の不義理を許してもらおう」と考えた時に、相手から「お金ではない。もう関わらないで欲しい」と拒絶されたとしたら。

自分を全否定する人間が「この世のどこかにいる」という事実と、稼ぐことができた「富」とを比較して、どちらが大切なのかは、個人の考え方だろう。

中高年になって、「こちら側に正しさがある」と法的に理解できていても、その場を流して荒立てないのは、正しさだけで社会が出来ていないと気づくからだ。

誰を守るため、自身の尊厳を保つため、そんな何物と比較しても譲れないことでもない限り、法律はルールの域を超えたりしない。

諺に「負けるが勝ち」というものがあるが、10年の月日を費やして、正しさを証明する価値が本当にあるのかを考えるべきだということなのだろう。

その時点で大切にするべき存在を無下に扱った人間は、その後いろんな経験を重ねて、その時にしたことを悔い改めたいと思うだろう。

でも、多くの人は法律で認められていたとしても、そこに頼ることを選ばずに、別の選択肢を選んで生きている。

ある意味、過去を思い出や美談、若気の至りとして考える人もいるが、そこはずっと反省だし、決して認められることではない。

ある意味で、心の奥にずっと後悔として捉え、だからこそ今を謙虚に生きることになる。

こみちは、誰かを裏切ってまでお金持ちにはなりたくないし、質素でもできる範囲で自由を維持できたらそれでいいと思う。

でも、相手を騙すまでいかないにしても、相手から愛情を注がれていることや、思いやりを持って接してくれていることに気づけない人もこみちを含めて存在する。

もっと感謝しないといけないし、生かされていることに気づくべきだ。