元介護士が介護職から離れて感じること

 「介護」は大変だ!

さまざまな理由を挙げたとしても、「介護」は楽しい仕事ではない。

もしも「楽しい」と感じているなら、任せられた責任と達成感のバランスが並列に扱われているからだろう。

つまり、苦労も多いけれど、やり方があるから、「楽しい」と感じる場合、「苦労」は自分のためにあると認識している可能性が高い。

「介護」で大変なのは、サービスを受ける人にとって「介護」とは何かを介護士たちが想像しなければいけないし、どうしても他人の本心を理解しないまま、思い込みに走って満足しがちになる懸念だ。

ありがちな介護として、100%を介護士側でサポートしてしまう方法。

又は「自立支援」を理由に、事務的な介護サービスを肯定する介護士になってしまうことだ。

具体的には、高齢者が尿意を頻繁に訴えることがある。

少し想像して欲しいのだが、トイレに行く時に誰かが付いて来て、しかも急かされる状況でしっかりと用を足すことができるだろうか。

我々でも、一部始終を監視された中で済ませるのは大変で、まして小ではなく大だとしたら、なおさら気を使うだろう。

そんな中でもしも介護士に、「さっき連れて行ったでしょう!」と上から目線で言われたら、どれだけ惨めな思いになるだろうか。

老化や病気もあって介護サービスを利用しているだけなのに、介護士からどこか面倒をみてあげているという雰囲気を出されると、そこはとてもデリケートな領域だ。

こみちの場合、いくつか段階を設けていて、座位(座っていること)がしっかりとできる場合には、目の前には立たないで視界から外れたところで待つようにしている。

「少し離れたところにいるので、声を掛けてくださいね!」

少しでも自分のペースで用を済ませて欲しい配慮だ。

もっと安心できる場合には、座位まで確認したら専用のコールで呼んでもらうまで離れてしまうこともある。

当たり前の話だが、介護士の介護する方法はテクニックではない。

介護される人にとって求めている「介護サービスとは何か?」から、介護士の行うサービスも決定する。

思うけれど、一般的な営業マンに求める意識と比較しても、介護士に要求される意識は引けを取らない。

介護士という仕事を全うできるなら、かなりいろんな仕事でもその能力を発揮できるはずだ。

その上で、元介護士になって思うのは、「介護士という仕事でしか得られない経験」がたくさんあるということ。

約3年の介護職経験で、人生の最期に関わることができたケースも一度や二度ではない。

ある意味で、「人の最期」は特別なことではなく、むしろ「翌日」と同じ感覚だ。

体調を崩して顔色が悪く、寝ている時期が長く続くと、人は体力と気力を減少させる。

治療や自分の意識で、回復するケースも多いが、高齢者の場合にはさらにもう一段階深刻な状況になってしまうこともある。

その特徴的なことが、食事量の減少だろう。

食べ物を拒絶し、水分だけになり、その後は水分さえも求めなくなり、介護士は水分を含んだスポンジで唇を拭うことがある。

確かに悲しい流れではあるが、もしもそのなった時には「生きること」ではなく「生きたこと」を振り返ることも必要だ。

コロナ禍で困難な場合もあるが、できるなら家族を呼んで、水入らずの時間を過ごして欲しい。

そんな時に、介護士は何かするのではなく、見守ることこそが大切で、しっかりと家族だけの時間を過ごしてもらうことに考えを切り替えることだ。

その反面で、介護士は「延命措置」や「医療行為」の意味を自分なりに理解しなければいけない。

大きな流れを変える力は、介護士には無いけれど、でも介護士として従事するなら「生きる」を正面から理解していく努力も必要だ。

特に中高年になって、段々と体力に翳りが見え始め、自身の人生を振り返る段階になって、介護士としての経験は役立つ。

知識や憶測では分からない現実があって、時にはこれまでの価値観すら一変するかもしれない。

少なくとも明日よりも今日を大切にするようになるし、さらに言えば「今」を軽視しないようになる。

そこには「ムダ」さえも受け入れることができるようになって、それが生きている一部だと思える。