きっかけは母親の知人
とても残念なことですが、母親の知り合いが亡くなってしまいました。
母親も先月に会って話をした女性で、その時は彼女の旦那さんとの旅行が延期になったことを教えられたみたい。
誰にとっても、今日や明日は当たり前で、それがいつまでも続くと疑わないのも仕方ありません。
しかし、介護士として働けば、最期の別れに直面することも多く、だからこそ「介護とは何か?」も気付かされます。
その話を聞いた父親の反応
話を聞いたのは8時頃になった晩飯時。
とは言え、父親は先に食べ終えていて、一人でリビングのテレビを観ていた時です。
珍しく母親は「疲れた」を連発し、「何でだろう」とも繰り返しました。
暑い日中、汗だくで帰宅しても、父親が母親のためにエアコンを点けるとか、冷たい麦茶を用意するとか、そんな気配りは相変わらずできません。
そんな父親なので、母親とそう年齢が変わらない女性の旅立ちをどんな風に受け止めているでしょうか。
その女性にはお子さんもいたようですが、今は独立されて旦那さんと二人暮らし。
つまり、今は旦那さんだけが家で暮らしていることになります。
炊事から洗濯、支払いの手続きに買い物と、女性が当たり前に済ませてくれたいろんなことを、自分だけでしなければいけません。
もしも今、母親に何かあったとしたら、父親は自分の生活くらいできるでしょうか。
「できない」と思って、いろんな人が世話を焼いてくれた人生だったはず。
しかし、どこかのタイミングで人は一人になるし、その時にきっと自身の人生を振り返るはず。
実際にどうだったかは別にしても、自分でどれだけ満足できる生き方だったのかは、自分にしか分からない。
「あの時に…」と悔いが残ることがあると、他がどれだけよくても、悔いが残る人生になってしまう。
受け身で、自分のことを最優先にした生き方を続ける父親が、本当に最期の最期に母親に優しくしておけばと気づいたなら、それは悔いが多い人生になるだろう。
だとしたら、もう何も考えずに自分らしさだけで生きた方がいいのかもしれない。
でも、亡くなった女性のように、そして残された旦那さんのように、ふと急に人は運命によって生き方が変わってしまう。
もう今日になったら、昨日のことなど無かったものになって、父親には今日が来るだけなのだろう。