「弱い人間」をどう支えていくのか?

 「弱い人間」の特徴

「弱い人間」の特徴を考えると、「遭遇したトラブルに対する反応速度が短い」ように感じます。

自身の想定外のことに遭遇した時、何か反応したいと思ってしまうのは、加えられた「困難」を少しでも早く取り除きたいからでしょう。

これはあくまで経験談ですが、脳の構造上の問題と精神的な問題に分けて考えた時に、精神的な意味での「困難」は周囲の人が配慮することでトラブルを作為的に取り除くことができます。

一方で、脳の構造上の問題の場合、一般的に周囲の人がトラブル回避の方法を見つけ出せずに、過敏に反応した本人の言動に太刀打ちできないことも少なくありません。

言い方を変えれば、目の前にトラブルが発生した時、そのトラブルが緊急性を要する場合だと明らかに分かっても、まだ自身の範疇ではないと避けてしまうタイプの人も、根っこの部分では「弱い人間」に含まれるのでしょう。

こみちも強い人間ではないので、急に現れたトラブルにオロオロとして、何をするべきかも分からなくなってしまいます。

ただ、これまでの経験から、何度か「ここで逃げてはいけない!」と腹をくくるしかないと奮起したことがあります。

路上で意識を失い、一見すると心肺停止に思えた人が倒れていて、その人を見つけた時、こみちしかそこに居ませんでした。

もしもそのまま気づかないふりをして立ち去れば、その人の健康や生命に影響があったかもしれませんし、気になったこみちはその後もずっと「あの人を放置した」と後悔していたでしょう。

もう何十年も昔のことで、遠巻きに見ていた通行人に救急車を呼んでもらったりして、その後病院へと搬送してもらうことができました。

実は介護施設でも同じようなことがあって、ルーティーンになっている業務ではできるのに、状況的に悪い流れになっている時に「弱い人間」に見えてしまうタイプは少なくありません。

「弱い人間」と共に生きるには

「弱い人間」は一人では動けません。

もっと言えば、「問題」から避けてしまいます。

ある人がいっていた言葉に、「大学に行く意味は受験を経験し4年間通い通した我慢強さだ」と言っていたのを聞いて、こみち的に「なるほど」と思ったことがあります。

別に大学ではなくても、部活をやり切ったとか、社会人として大きなプロジェクトを達成したという自信もまた人を強くしてくれます。

いきなり困難な課題を与えても、自信を失うだけですが、そこまでに小さなやり通せるテーマを設けて取り組むことで、人は成長し、いつしか大きな困難にも取り組めるようになります。

しかし、冒頭で触れたように、心の問題なら対策次第ですが、脳の構造上の問題である場合には、小さな課題はできても、そこから成長できないタイプは少なからず居ます。

そんなタイプの人に、公平な分担を強制しても、逃げ出すことしか出来ません。

理由や原因を追求しても、「次は頑張る」と答えてもそれはその場しのぎでしょう。

だからと言って「約束したのに」「信じていたのに」と感情をぶつけても、相手にすれば「やる気はあったけど、できなかった」意外に何もないでしょう。

このタイプの人は、ある意味で「やり通すこと」が難しく、だからこそ周囲で支えて「形」にしなければいけません。

ある意味で社会保障の概念にもなる考え方で、人としては公平でも、役割や責務という意味では完全な公平ではありません。

そこを永遠に「公平ではないのは不公平だ」と言い続けても、思うような結果が得られなかったり、全体として期待した成果もないでしょう。

「弱い人間」を扱うには、できるだけ「困難」が一気に押し寄せないように周囲の人がコントロールしてあげることです。

一つできたら、別の一個という具合に、このくらいなら頑張れるという量を調整し、負担を軽減させるのです。

そのためには、「弱い人間」ではない人。でもだからと言って「強い人間」ではない人が、諦めずに困難を支え続けられるかがポイントです。

強制したがる「弱い人間」もいる!?

「弱い人間」と言っても、全ての人が受け身ではありません。

中には「強い人間」と誤認し、周囲の人をコントロールしたがる「弱い人間」もいます。

特徴としては「結果」ではなく「方法」にこだわるきらいがあること。

つまり、「方法」というその人の意思や決定が周囲に反映されていることで、「弱い人間」ではないとアピールしたいのです。

周囲の人が支える場合も、ただ支えるではなく、時間を奪われることも特徴です。

「今すぐ来て欲しい」とか、「するしかなくなった」といった具合で、支える側にすると選択肢がない状況を迫られます。

気づけば「弱い人間」に振舞わされている状況となり、同じ支えるにしてもより労力が必要とされます。

変えることを渋り、新たな提案に合理的な批判もできなかったりして、でも理由のない批判をしてしまうのは、本来なら「弱い人間」なのでしょう。

しかしながら、元来、「強い人間」などいないはずです。

その理由として、困難はいくらでも生み出され、強い人でさえ手に負えなくなるとらです。

結局はどこかのタイミングで、仕切り直しをして、優先順位をつけて対応しなければ強い人間もどこかで潰れてしまいます。

潰れてないためには、どれだけ困難を支え続けられる仕組みを個人や組織で作りあげられるかに掛かっています。

「弱い人間」は長い時間、困難を持ち続けられません。

その上で、彼らよりも強い人間は、少しだけ困難に耐えて、処理する順番を整理してから「弱い人間」に話を伝えることが大切です。

こみち自身、過去に「強い人間」なのだろうと思えた人がいて、その人が来るとなぜか一気に雰囲気からやる気まで変わったことを覚えています。

その人がいることで、自分たちでもやり切れるのではないかと思えるのです。

それは言葉とかではなく、動物的な感覚なのでしょう。

でもそんな人など何人もいませんし、普通は「弱い人間」ではない人が、社会の中でストレスと戦いながら頑張っているのが実情でしょう。

「なんで自分だけが? アイツは楽ばかりして」

誰もがそんな経験をします。

しかし、「楽」も様々で、その人にとっては苦労やトラブルということも珍しくありません。

そして、弱い人間を追い込んでもいい結果にはなりません。

そのいみでは、施設介護よりも介護予防の段階の方が難しい問題を抱えています。

「あなたは弱い人間だ」と言われて嬉しい人はいません。

楽はしたくても「他人から弱者」とは思って欲しくないのが人間だからです。

そんな心理の中で、いかに健康を維持して、老化現象が現れた肉体と向き合えるかをサポートする時は、「弱い人間」という雰囲気はご法度です。

まずは介護士側で自身のダメな部分をさらけ出し、相手もまた同じであることを共感してもらうことが大切です。

声掛けの時に、「介護士自身は簡単にできるけれど、利用者の方々はできないでしょう?」という雰囲気を出してしまう介護士がいます。

理由はその介護士もまた「弱い人間」だからです。

そこからどう学び、少しでも困難をキープできるようになれば、結果は大きく変化してくるのですが。