現役介護士だから言えること
さわりとしての「介護」ではなく、もっと本質的な「介護」の話をすると、介護士だから「介護」ができる訳では無さそうです。
もちろん、テクニックによってカバーできる部分もあるのですが、人である利用者と信頼関係を築くには、それに見合った人物でなければいけません。
その人物になるには、オムツ交換ができるというような「作業」は含まれません。
むしろ、瀬戸際になった「人」に手を伸ばすことができるか否かだと思います。
実はこみちが所属する施設のあるエリアには「ターミナルケア」が始まった利用者がいます。
「ターミナルケア」とは、回復を見越したケアではなく、本人が望むようなケアを継続して、残された時間を少しでも有意義に使ってもらうケアです。
生まれた人は、いつかこの世を去るのは避けられません。
しかし、いつ「迎え」が来るのかは、生き方次第でかなり異なります。
難しい問題ではありますが、「瀬戸際」を迎えた時に介護士が放置すれば、利用者の寿命は短くなるでしょう。
刑法学でいう不作為と言うような概念ではなく、その時々、介護士は介護士なりに適切な判断を行っていたとしても、時にそれが「放置」と変わらない評価になることがあります。
しかし、同様のケースでも、介護士が変われば、瀬戸際どころかもっと早い段階で本来あるべき状態に戻すことができるでしょう。
この話は「名医」と呼ばれる医師だけが行うオペみたいなもので、できる人には特別なことではありませんが、できない人には到底想像外の話なのです。
あえて言うなら、「ターミナルケア」が始まったと聞いた時、利用者の寿命を想像したよりも、施設におけるサポート力の限界を思い浮かべました。
本来なら、自身に支えきれない「仕事」を納期ギリギリまで抱え込んではいけません。
それは介護の世界だけではなく、異業種でも同じことです。
なぜなら、残された時間が少なくなるほど、選択肢も無くなるのが常で、だからこそ自身で手に負えないと気づいた時は次の一手を打つべきです。
サラリーマンなら、仕事を振ることでしょう。
介護施設なら、利用者家族と調整し別の施設へ移動させることです。
ただ、これはある動物病院の話ですが、獣医の治療で一番難しいのは飼い主に理解してもらうことだそうです。
治療が必要になったペットにどのような選択肢があったとしても、飼い主が拒絶すれば獣医はどうすることもできません。
だからこそ、飼い主の失態を責めてしまえば、ペットの命だって助からなくなることもあります。
健康状態が低下してきた利用者を「ターミナルケア」に認定するのは簡単です。
そして、その事実を利用者家族に説明するのも難しくありません。
なぜなら、前提が「選択肢は一択」というスタンスだからです。
しかし、本当はそうではありません。
時間を巻き戻すことができたのなら、大体、一週間とか一ヶ月前に予兆はあって、その時々の気づきで対策を講じていれば結果は違っていました。
しかし、まるでそうするしかないというスタンスで時間が過ぎてしまうと、もはや選択肢は残されていません。
ギリギリまで来てからでは、もう話し合うことはできず、ただ現状を報告する意味しか持たないでしょう。
こみちが施設に勤務する回数を減らして思うのは、「いつのまにかターミナルケアになっていた」とか、「昨日からほとんど食事していない利用者がいる」という話を耳にするようになりました。
もちろん、適当な介護士のこみちよりも、経験者の多いスタッフなのに、側で耳にするのはとても変な話ばかりです。
そんな状況になり得ないのに。
考えられるのは、初期の気づきを見逃したことで、事態が悪化し、さらに放置することで俄に信じられない報告を聞きます。
実は、少し困難な話ではありますが、利用者泣き落とすような方法で、瀬戸際から引き寄せることができました。
もしも、こみちが「仕方ない」と思って放置すれば、次回顔を合わせた時には「向こう側」に近い存在だったかもしれません。
何より感情的で介護士の接触をシャットダウンさせてしまった利用者に、どうコンタクトを取れば良いのかは、もはや介護スキルではありません。
一種のネゴシエーターのようなもので、そこにはある種の理念や倫理観がないと、それこそ「自立支援」という発想では動けない領域です。
だからといって無理矢理何かを講じることが大切なのではなく、利用者自身が生きることを選択できる状況に戻すに過ぎません。
しかし、ほとんどの場合で利用者自身が自ら寿命を切ることはなく、選択できる状態に戻すと「生きる」を選んでくれます。
究極の意味では、介護士の仕事は、そんな選択肢をどこまでキープし続けられるかということ。
今日、一人の利用者をそんな状況に戻すことができました。
それくらい、「やばい」とこみちは本能的に感じていて、だから必死で説得したのです。
「拒絶しているから無理!」
ある介護士のそんな言葉に落胆しましたが、その人はそこまで来た利用者に手を伸ばすことができないだけで、その人を責めても何も変わりません。
こんな話をしていて、思い出しましたが、「人を救うことができる人」は、難易度が上がる度に段々と減っていきます。
こみちが手を伸ばせただけで、さらに進んでいたらもう無理だったかもしれません。
つまり、放置しかないと思った介護士は、こみちよりも早い段階で選択肢を失ったのです。
これが、医学的な知識や看護的な知識、全く異なる力を使えば、もっとギリギリの人をも救えるかもしれません。
正直、施設に行くと、楽しさよりも虚しさの方が多い感じます。
「利用者は楽しいと思っているだろうか?」
表情を見てそう感じるのですが、介護士もまた暗い顔をして働いているのを見れば、すでに難しい状態になっていることが分かります。
それでも施設は動こうとしないのも、正確にいうと「動こうとしない」ではなく「動けない」のです。
勤務を終えるといつも疲れ切ってしまいます。
なぜなら、仕事中、こみちができることをできるだけ出し切って働いているからです。
その結果、利用者に笑顔が戻って来れば嬉しいですし、心を閉しかけた利用者が話に応じてくれたらホッとします。
でも、そこまでとなると、もう一般的な意味での介護士の仕事では無いのかもしれません。
でも、「介護とは?」と考えた時に、こみちが想像するのはまさにそんなことなのです。