「常識」と「幸福」の狭間で生きる話

 「幸せ」とは何か?

改めて「幸せ」を考えた時に、その答えは「常識」が大きな影響をもたらせている。

「お金」で苦労すれば「お金持ち」が幸せな象徴になり、他人よりもワンランク上の物を持つことで幸せを感じたいと願う。

でもそれが唯一の答えではない。

「生まれた意味」や「やり遂げたい希望」など、ただ他人よりもワンランク上の物を持っていても、実は心が満たされていない場合も少なくないからだ。

大きな家や一等地に住み、家族はみんな高学歴で、自分も配偶者も大企業に勤めている。

しかも持ち物は世間の人よりもワンランク上。

でも、時間は24時間しかなく、雨が降る時は濡れてしまう。

つまり、どんなに誰かと比べても、それだけで変えられるものは限られていて、もっと言えば「幸福」もある限られた範囲内のことでしかない。

誰かに羨ましがられる生き方を幸福のバロメーターにしても、それでは自分自身が幸福だとは思えないから面白い。

だから人は夢を持ち、こうなりたいと言う憧れを持つのだろう。

誰かの真似ではなく、自分自身に向き合って分かる幸福。

それはお金でも買うことができない領域にある。

「常識」の大切さと不自由さ

例えばビジネスで「常識」を疑ってみると言う発想がある。

固定概念を取っ払うことで、それまでの制限や限界を一気に突破し、不可能だと諦めていたことが実現できたりするからだ。

一方で、常識を持つことで、互いとの距離や関係性を適切に保つことができるから、あまりに文化や習慣がかけ離れてしまうと先ずはその距離感を見直すことから始めなければいけない。

普通、「1万円」ほどの商品に「10万円」出したら、素材や性能が良くなっている。

機能としてはほとんど同じでも、触り心地や感じ方に違いがある。

つまり、その感覚がなければ、せっかくの高級品もあまり意味がなかったりする。

これはこみち自身の経験だけど、友人に車好きがいて、外車や高級国産車を持っている。

そして、彼の車はいつも掃除が行き届いていてメンテナンスも自分でできるから、見れば愛着を持っていることが分かる。

こみちには到底そこまで愛情は注げないなぁと思ってしまった。

つまり、こみちが彼と同じ車を手にしても、買うことはできるが大切にはできないのだ。

品質も良さが高級品の代名詞だとするなら、その部分を感じるほどには愛着注ぐ知識も技術も知らない。

それではいくら高級品が買えたとしても、扱い方は普通の物と同じになってしまう。

彼の扱い方を知って、こみちは高価な車を欲しいとは思わないし、何よりその良さを感じられないと分かった。

身の丈と言うことを知ることも、常識として必要になるのだろう。