「男らしさ」と「介護」の狭間

「男らしさ」ってなんだ?

介護士として高齢者に接した経験を振り返ると、多くの女性利用者に驚かされて来ました。

その中である利用者から教えられた話として、自分が施設入所を決めた理由として「家族の心配」を挙げられています。

つまり、自身の気持ちとしては、自分らしく暮らしたいと言う意味でも、また家事などもできる自信があって、一人暮らしもできると思う方は大勢います。

しかし、遠く離れた家族としては、高齢になる親が一人暮らしをしていて、さらにアクシデントなどでケガなどを抱えた場合、心配してその暮らしに不安を感じ、時には今まで暮らした場所を離れて、子どもたちのいる遠く離れた地に引っ越しするような誘いもあるのでしょう。

とは言え、既に子どもが自分たちで所帯を持っていたら、その配偶者がどんなに笑顔だったとしても、高齢者になる自身の今後を気に掛けることも事実です。

そんな理由から自身で施設入所を選択し、しかも自身の住んでいた住まいを片付けて、終活するのは口で言うよりも簡単ではありません。

実はそんな大変な決断をされて、施設入所された「女性」を数名知っています。

一方で男性の場合、施設は仮の住まいで、時には何度も妻を施設に呼び、結局は施設での生活に馴染めずに退所される方も多かったです。

どうしても施設では自由が制限されますし、思うようにはできません。

家であれば「お茶をくれ!」も通りますが、やはり男性には施設での生活が負担に感じるのでしょう。

このような経験を踏まえて、「男らしさ」とは何だったのか考えます。

「男らしさ」=「初志貫徹」?

貫くことを男らしさだと考えるのは少し違うように思います。

「頑固さ」や「動じない様」は、それこそ感情を揺るがない大変さもありますが、例えばこみちの父親は動じないと言うか、殻にこもってしまいます。

自分のテリトリーがあって、そこでしか行動しないので、その外側にあることは誰かが与えない限りできないのです。

今は経済活動さえも枠外にあって、小遣いとして欲しい物を買うこと判断できても、家の補修工事などは分かっているようで分かっていません。

それは自身の今後、介護される暮らしに関しても同様で、「オレは長生きしない!」と言うことで考える拒否していますが、母親の方が先に他界することもあれば、介護を必要とすることもあるでしょう。

そうなった時に、自身が健康的でなければならないと言う自覚が感じられないのです。

つまり、「動じない」ではなく、「状況把握できないだけ」とも言えるのです。

こみち的に考える「男らしさ」とは、「最後の責任」と「極限状態での踏ん張り」ではないかと思いました。

例えば災害が起こり、家族が今の生活を続けられないと落胆した時に、諦めずに頑張れるかは「男らしさ」の踏ん張りだと思うんです。

「これから先ずはこうしてああして。だからみんなで頑張ろう!」

そんな言葉と行動で、この人なら信用して一緒に頑張れると思える人がどうかと言うこと。

もちろんスーパーマンではないので、上手く行かないことも沢山あるのでしょう。

でも、その頑張りを見て、家族として安心できることが「男らしさ」の本質ではないかと思うんです。

料理で例えるなら、母親の料理はバラエティーにあふれた美味しい物で、父親のそれは空腹を満たす保存食のようなもので、でもそれがあることで強く信じられるのです。

なので、外見の荒っぽさや融通が利かない雰囲気は、男らしさには含まれません。

むしろ、老いた時にただただ面倒な人になってしまう可能性があります。

舐められないように大きく見せたい人っていますが、確かにいちいち、自身のポテンシャルを話すのは大変です。

しかし、こみちも経験ありますが、凄い人はすぐに凄いと気づきます。

若しくは、接している中で、凄いと感じます。

なので、大きく見せると言う行為は、それだけ接して来た周囲の人が凄い人を実は知らないパターンではないかと思うんです。

父親の話に戻りますが、先日、こみちが手作りのハンバーグを作りました。

子どもの頃からこみちはハンバーグが嫌いで、母親が作った夕飯はとても残念な気持ちで食べていました。

大人になって、店でも注文することは少なく、でも段々とハンバーグに対する気持ちも変化し、それは妻が作ったハンバーグを食べて、レシピや作り方を聞き、段々と上達したからです。

あまり好きではなかったハンバーグを先入観を捨てて味わって、「美味しい!」と思いました。

特に上質な肉を使ったのではありませんが、家庭料理として食べる時に「ハンバーグ」を食べたと思えるくらいの仕上がりでした。

これなら家族も喜んでくれたのではないかと思っていたら、父親はそのハンバーグに手をつけません。

理由はいくつかあるのですが、母親が出来合いのおかずをいつも買って来て、父親に選ばせていて、ハンバーグは候補から外れました。

夕飯にも食べられず、翌朝にも、昼にも…。

そして一日経って、捨てられました。

まぁ、雑菌も気になるので、冷蔵庫に入れてあるとはいえ、作って時間が経過したら無理しないで処分することも悪い選択とは思いません。

でも、父親にとって、自分のテリトリーが全てで、市販のハンバーグはお手軽だけど、手作りハンバーグに感じる食感を楽しんで欲しい気もしました。

こみちも料理人ではないので、上手くできるとそうではない時があって、上手くできた時こそ、味わって欲しいと思うのですが、結局は閉じこもると言う行為を父親は選びます。

「食べるだけ」まで用意されて、自分で選ぶことで満足する人なので、行動はいつも同じです。

あれこれまわりで頑張っても、父親には全てのお膳立てをしないと受け入れてくれないので、手作りかどうかはもうほとんど無意識です。

よく母親に向かって、父親があれこれと説明している光景を見ますが、父親は新聞を読むこともしないし、家事もしないし、テレビを見て何となく知ったことくらいしか情報源はありません。

「コレはこうだ!」

そんな話をしている姿を見ると、その根拠はいつの情報からなのかと思ってしまいます。

物が高いとか安いとか、何十年も前の経験で話しても、今はもうそんな時代ではありません。

家にいて、受け身でいては、話を聞きたくても「それっていつの話なの?」となってしまいます。

父親に仕事の話や相談をしなかったのも、こみちがまだ社会人としてかけ出しで、父親に何か質問した時の返答を聞いて、それ以来相談しなくなりました。

それは、頭で考えることだけでは男らしさなど身に付かず、苦しい経験や苦い経験があって、だからどこまでならリカバリーできて、そこ以上は危ないと知っていなければ話できないこともあるからです。

多分、見ただけで凄い人だと思える人って、こみちよりももっと沢山そんな経験をされていて、でもそこから頑張って克服しているからでしょう。

何となくの雰囲気ではないんですよね。

いざと言う時に動けると言っても、いざしか動かない人は実際には動けなくて、やはり日頃からテキパキと行動していないとできるものではありません。

ぼんやりテレビを見ているだけで急に行動できる人がいたら、こみちも考え方が変わるのですが。