結局は相手次第
汗だくでキッチンに立ち、今日は米とぎから始めて油淋鶏と中華スープ、鶏から揚げを作りました。
都合、弁当用のおかずが必要なので、夕飯で食べきればいい訳ではなく、何か作る必要があるので「唐揚げ」も作ります。
もう数年、母親は料理を作りません。
と言うか、味見さえしない母親なので、きっと料理を作ることが好きではないのでしょう。
以前は家にいる時間が長い時、料理はしなくても米とぎだけはしてくれたりしました。
本当は冷やご飯を皿に盛り直し、炊飯器のお釜を洗うのは父親の役目でした。
母親にも「最近、全くしないけど…」と伝えていて、急げば10分くらいの家事ですが、寝転んでテレビを見続ける父親の姿が視界にあるので、やはり気分は複雑です。
今日でさえ母親は、米とぎもしないし、お皿に移すこともしてはくれません。
汗だくでキッチンに立つことが、この季節どれだけ面倒なことなのか一番知っているように思いますが…。
一方で、そんな母親ができるのは、自分が過去に買っていた商品をまた買ってくること。
キャベツと和えるだけの硬焼きそばも、時間が経つと美味しくありません。
でも、「美味しくなかった」と言う記憶が残らないので、また買って来ます。
きゅうりにトマト、ピーマン、シメジは母親のよく知っている食材。
だから、延々と買い続けます。
そして、汗だくになって作っていた時に、父親がエアコンを入れました。
自分だけに風が来るようにして、窓は網戸のままです。
「涼しい」と言うことを手に入れたい父親にとって、起きて窓を閉めると言う意識はありません。
例えば、電気代が掛かると言う節約の意識も薄れて、欲しいものだけを楽に手にするが行動パターンです。
昨日、こみちが作った夕飯に、全く手を付けませんでした。
盛った量が減っていないので、それが分かったんです。
じゃあどうしたのか?
それは母親がこっそりと出来合いの料理を買っていて、父親と食べるのです。
食べないことを指摘したいのではなくて、両親も食べるだろうと思って余計に作っているので、残り全部を食べるしかないのは流石に大変です。
でもこれも両親の不可解な性格で、「余裕」とか「選べること」にこだわりが強く、取捨選択することがとても苦手です。
だから何も言わなければ、2つから選択できる時は、先ず言ってはくれません。
なので、常に面倒な方向にことが進みます。
親の介護で一番大変なのは、親自身が状況を理解できなくなること。
してもらうことが当たり前で、常に心地よくいたい。
でもそうなるように行動を改めることもできないので、何もしない両親に優しさを与え続けられるかが問われます。
料理をし終えて、野菜室を開けると、またピーマンが増えています。
かと言って出せば好んで食べる訳でもなく、「買って来た自分」と言う母親の気持ちがそこにあるだけなので、ピーマンが好きとは限りません。
もっと意味あるモノを買って欲しいけれど、それを察することができない母親なので、期待もできません。
何のために汗だくで料理を作っているのか、考えると悩むので考えないようにしています。
例えば介護する親が、自身の立場をもう少し理解できる人なら、料理することももっといい関係でいられるでしょう。
虚しくなるから、親の介護って大変なんですよね。