悲劇のヒロインに浸る「母親」の人生

 やはり約束は守れないのに

50対50という約束も、次第に70対30になって、その内に80対20になる。

その辺りまで来ると、少しずつ「元の約束はどうなっているんだろう?」と思ってしまう。

その頃から、父親の時も母親の時も残り「20」さえ無くせないかと企むようで、抜けたり、忘れたりが始まる。

そんな時の父親は、決まって「オレは体が痛いんだ!」とか「寝不足なんだ!」と怒り出す。

仕事を持たない父親は、昼間も好きなだけ寝られるのだから、考えなくてもその言い分に意味があるとは思えない。

じゃあ母親はどうか。

母親は見ていないと誤魔化す癖がある。

「20」の部分をしたように見せるのだ。

相手に委ねられない時は、「しない」ことで自身の希望を叶えようとする。

だから、洗うべき物を洗わなくなり、気づけば汚れが目立つようになる。

「洗っているよね?」

あるタイミングでそう確認したくなる。

「何だっけ?」

「ゴメン」とは言わず、忘れたふりなのか、本当に忘れているのか、結果的には「20」ができなくなっている。

母親に、父親の朝食を作って欲しいと頼まれ、「カット野菜とウインナーくらいは買っておいて」と言い続けている。

別にそれらにこだわっているのではなくて、母親から買って来るから作るだけはして欲しいと頼まれたからだ。

それが50対50。

そして今は夕飯の食材を使って、できれば朝食分も賄って欲しいという話にすり替わろうとしている。

と言うのも、父親用の食事は両親が支出しているコスト。

一方で、父親に用意している食べ物は本当にたくさんある。

沢庵は食べやすくカットして大き目のタッパーに入っているし、それ用に買ってある予備も常に2本は冷蔵庫にある。

それ以外に、焼きタラコや味噌和えなどなど、もうご飯さえあれば済んでしまうほど。

でも、母親が父親に与えているのは「愛情」ではなく「物」に過ぎない。

父親は、他人の感情をどこまで察しているのか、こみちにはちょっと判断できなくて、案外大胆な行動を平気で取ったりする。

みんなが躊躇うような場面で、それを平然と行うから、見ようによっては父親はとても頼もしくもあった。

でも大人になって同居して気づいたのは、その大胆さは自分の欲望を叶えたい時に限られる。

誰かのためにするのではなく、「ここでできたら凄いと思われるだろう」と思えた時に行動に移す。

だから、事前の約束のように「できて当たり前」という行動には意欲が出せない。

だから些細なことでも言い訳したり、怒った態度を見せたりで、その場を回避している。

同居してもう十年以上になるが、父親も母親も1ミリも変わることがなかった。

試したけど無理だったではなく、最初からこちらの要望に応えるつもりが感じられない。

残り「20」をいかに間逃れて、相手に全部押し付けられるかだけに見える。

「朝食、作らないと辛いかなぁ」

こみちはそんな気持ちで揺らいでいる。

でも作らない。

これで作ると、この手口をいろんな場面で繰り返し、全部を押し付けて来るから。

無理なことは無理にしておかないと、両親みたいなタイプは、都合よく理解し、自分が得になるようにしか動いてくれない。

それがナルシストというタイプの特徴とも言える。

叶えられないことで悲劇のヒロインになって欲しくはないのだ。