「昭和」と「平成」「令和」で変わったこと

 「事実」と「隙間」

文化とか空気感の正体は、無数に存在する「事実」と「事実」の隙間だと思う。

地域によっては、その隙間がほとんどなくて、規則とかルールが厳格に優先されている。

でも別の地域では、むしろ隙間の方が重んじられて、価値観とか人間らしさとか、文化や居心地の良さを決める。

昭和をノスタルジックに見れば、現代から見ると長閑に思うかもしれない。

でもスマホがなかった時代、屋外で待ち合わせする時は「時間厳守」がとても大切で、30分もずれたらもう会うことができない。

「今、ここにいるよ!」

たったそれだけのことが伝えられないからだ。

スマホというのは「事実」。

つまり昭和の頃にはなかったから、「事実」は別も物だった。

それが時代の変化で移ろい、「待ち合わせ」が「時間厳守」とは限らなくなった。

「着いたら連絡するね」そんな方法だってできてしまう。

「事実」最優先の世界線

現代社会を牛耳るなら、「事実」を掌握すればいい。

便利なものを開発し、その特許を持ち、業界の重鎮になれれば、社会を支配できてしまう。

「昭和」の頃も、そんな考えが無かった訳ではないだろう。

でも、現代よりも圧倒的に手作業で、クリックだけで完結できるものが無かった。

一方で現代社会は、インターネットにより人間の生活がネット上に移行した。

便利さを手に入れたことで、隙間よりも事実に目を向け始めた。

つまり、昭和の頃よりもずっと今の方が重鎮になりやすい時代になったとも言える。

富を得る人は、「事実」だけを見て考えるようになる。

簡単な例を挙げると、ある建物を購入すると、その建物を自由に使えるのは買った人なのだ。

つまり、「購入」が事実で、お金があることで「事実」を得ている。

そこに住んでいた虫や野生動物が絶滅しても、事実が事実である以上、誰かも咎められる立場ではない。

でもそうだろうか。

つまり、虫や野生動物は「隙間」として扱われ、彼らが暮らしたことで豊かな自然が形成された。

逆に人間が隙間を彼ら以上のスピードで再生させることはできない。

自然の猛威の前では、人間も無力なのだ。

隙間ばかり気にしていても解決できない問題がある。

でも事実だけでは本当に世界を救うことはできない。

日本は、確かに高齢者が多い国で、高度成長期にくらべて活気も減ったかもしれない。

でも日本の良さはたくさんあって、それは事実で支えているだけではなく、隙間が心地よいからでもある。

でも現代社会は事実を優先し、そこを塗り替えること目指しているように思う。

仕組みを作り、全体をそこに沿わせることで、あたかも社会を支配した気分になってはいないだろうか。

目まぐるしい速さで事実が塗り替えられて、その隙間も変わりはてれば、そこに文化や居心地は途絶えてしまう。

「昭和」の頃は…。

それは本当の昭和を懐かしんでいるのではなく、失われている隙間文化や居心地に憂いていないのだろうか。

「お金を払えばいいんだろう?」

そんな簡単な話なのだろうか。

でもうかうかしていると、事実だけを見ている人たちが、世界を牛耳る時が来る。

隙間文化を失った時に、庶民たちは何を思うのだろうか。