「感謝」とは何か?を考える話

 どう説明するのか?

子ども「感謝しなさい!」と言って、もしも「どう感謝したらいいの?」と聞かれたら、「ありがとう」を思い出しなさいと伝えるでしょう。

では大人に「感謝して欲しい」と言う場面はどうでしょうか。

思うに、そう感じて、相手に伝えたいと思ったら、もう諦めるしかないのかもしれません。

と言うのは、「感謝」って「経験」から来るものだと思うんです。

「米を粗末にするな!」と教えられて育ったのも、田植えも稲刈りも手作業でするのは大変です。

こみちは過去に手作業で行う経験があって、籾が成長し穂にたくさん実ことを知ってします。

その間に田んぼの水管理や雑草、害虫駆除も経験があって、収穫時期に台風が接近すると「田んぼは大丈夫だろうか?」と思ったりもしました。

言ってしまえば、そんな経験が背景にあって、「米の大切さに感謝する」というのは、農家の方々が「あの苦労」をしてくれた結果だと思えるからです。

大人になると、この世の全てを経験することはできませんが、「きっと大変な思いをされたのだろう」と想像することはできるはず。

つまり、「感謝」って「経験」があって成立します。

子どもの場合、成長期なのでその経験に乏しいこともあるはずで、「感謝って何?」という質問も意味があります。

でも大人に対してはちょっと違っていて、言葉でどんなに説明しても、「苦労」とか「手間暇えお掛ける」は経験してみないと分かりません。

しかも「苦労」などの言葉は、「こうすること」というルールで決まるものではなく、最初はひと通りすることでも大変で、繰り返すことでもっと上手にできることに苦労します。

だから、「苦労」も同じ感情ではなくて、やはり経験なんだと思うんです。

この話になった背景

昨晩、手作りハンバーグを晩ごはんに作りました。

こみちはあまりハンバーグが好きではないのですが、妻が好きなので作りました。

「晩ごはんだよ」

そう声掛けた時に、「手作りなの?」と喜んでくれて、「この素朴さが手作りだよね」と食べ終えて満足してくれたので、苦労して作った価値がありました。

では両親はどうだったのかというと、「美味しかった」とも「ありがとう」とも言ってはくれません。

食器もシンクに運んでそのままでした。

洗い忘れもあるのですが、運んで終わりと思ってしまうようです。

手間暇掛けても伝わりません。

出来合いをチンして出しても変わらないのではないかとも思ってしまいます。

でも全く反応がないことへの不安を感じつつも考え方を切り替えて、「自分が満足できたらいい」と思って作ります。

こみちに「感謝」して欲しいということではなくて、生きていることに感謝を忘れたら、生きていることを無駄にしてしまうと思うんです。

だから、できることがあるならその経験を発揮して役に立ちたいと思うんです。

何もできずに、人の世話になりっぱなしになることが申し訳ないからです。

高齢者の場合、現役時代にずっと頑張って、だからの老後なんだと思うんです。

老いて感謝する気持ちが減っても仕方ないと思っているのですが、両親に対してはちょっと切ない気持ちにもなります。

「全部が当たり前」という振る舞いになるのも、「フォロー」されていることに気づけないからです。

とはいえ、人生経験があれば「ありがとう」と口にする習慣は作れます。

未だに素直に謝れない性格の両親なので、「ありがとう」が言えないです。

「感謝」するって口で言うほど簡単ではなくて、大人になって誰かに教えられるものではないと思います。

挫折とか失敗、不合格などで味わった悲しみとか、その時に支えてくれた人の温かさとか、それらがその人の人生観を作り「感謝」になると思っています。