老い続ける両親とどう生きるべきか?

 こみち家の問題

こみち家で一番の理解不足は、「老いる」ということがどんなことなのかという部分。

幸い、持病はありますが、健康面で急を要するような状況ではない両親です。

とは言え、父親に何か約束事を期待することは不可能ですし、最近では母親もかなり思考に偏りがあります。

というのも、「思考」とは思ったり考えたりすることですが、大切なのは全てに答えを求めないことと、考えるべき順番だと思うのです。

例えば、これからどれくらい介護度が進むのかをどんなに考えても答えは見つかりません。

ですが、例えば足腰が大切というこれまでの経験則を理解していれば、少しでも歩くことを心掛けるのは間違いとは言えないでしょう。

つまり、できる、できそうなことはできる限り継続し、健康や生命に直結する被害が考えられることは予定を組んだり、助けを求めるなりして、老いたなりの解決策を探すことが大切です。

若い者には負けない両親

これはとても残念な部分ですが、老いることによって、人の思考は狭く浅くなります。

いろんな状況を踏まえて結論を出すことがとてもストレスで、簡単に答えが見つかることを優先しがちです。

それは、長く寝ることができなくなってしまうこと似てます。

「続けること」は、意外にも簡単ではありません。

例えば、食材を買って来るというこみち家の約束事で、母親には「カット野菜とウインナー」を朝食用にお願いしています。

それはそもそも父親のために用意されるもので、例えば父親が自分の食事自分だけで解決できるなら問題にもなりません。

しかし、世話焼きな母親は、「父親に用意する」をとても大切にしていて、自分でするとは言わないのに、頑なにルールとして残したがります。

そこで、こみちからの提案として、朝はカット野菜とウインナーを用意してくれたら、それを提供するという決め事なのです。

ところが、昨日も今日も、カット野菜もウインナーも買っていません。

ウインナーは無いけれど、冷凍庫に冷食を買っていて、カット野菜は無いけれど、キャベツやレタスを買って来ました。

加えて、賞味期限が今日までの出来合いのオカズがまだ冷蔵庫残っていて、言ってしまえば両親だけなら夕方に何も作る必要などありません。

しかし、こみちと妻の分だけとはいかないので、4人分の食事を夕方に用意します。

そうなれば、出来合いのオカズを食べることができなくなって、それが翌日にも残ります。

ですが、朝は父親用にオカズを作ると熱望するので、「今日は要らないでしょう?」と確認するのです。

「一応、作っておいて」

この「一応」という選択肢を残すために、いろんなことが二重、三重の手間になっています。

そんな母親を全面的に受け入れる覚悟はあるか?

一番の心配はボケた母親の介護でしょう。

そして、母親が世話を焼き続けたことで、何もできない父親。

どちらが残されたとしても、その時は施設にお願いするしかありません。

ですが、介護業界に詳しい人はご存知だと思いますが、施設に入ってもらうとしても、経済的な負担や空き人員などで、お願いしてすぐに入れるものではありません。

長ければ、5年以上も待つことになり、それこそ在宅で2人の世話をする状況は家庭崩壊に直結します。

こみち自身に経済的な余裕もありませんし、とても母親を支えるなどできません。

かと言って、父親だけが残されたとしても、洗濯から食事まで、全面的に支えることになるので、寝たきりの要介護5と同じ介護になります。

在宅で面倒見られるのは、トイレに行けることが条件だと思います。

それができなくなると、家族の負担が一気に増えてしまうので、施設の利用を考えなければいけません。

既に全く言うことに従ってくれない両親

説明しても翌日には全部忘れてしまうのか、自分たちのこだわりに突き進むのか、生活状態は全く変わりません。

できていないことを理解しているのかも定かではなく、それこそ今後をどう生きるつもりなのかも分かりません。

せめて面倒をみさせるつもりなら、従って欲しい部分もありますが、「そんなんじゃ、面倒みないよ!」と口にすると、逆に「面倒みてくれる」と解釈してしまうんです。

だからこそ、余計なことも言えず、でも現状は決して上手く進んでいない。

まともに考えるとこちらが悩んでしまいます。

昨日も妻に相談したら、「それはそっちで解決して欲しい。もう考えたくない」と断言されました。

まぁ、今後を考えると、どう転んでもいい話にはなりそうにないので、自分を壊さないように見守るしかありません。