「正論」も「論破」も前提あってのもの
例えば美味しい料理を食べるとして、レシピや食材にこだわるのは正論でしょう。
意外と切り方や部位によっても食感が変化するので、繊細な部分まで気配りすることも忘れずに。
しかし、そもそも論として「美味しい料理を食べたい」のであれば、「自分で作ること」を条件に加えずに、「食べに行く」という解決策もあるはずです。
その店が高級店なら、その代金を稼ぐ方法を見つけることが、「美味しい料理を食べる」手段にもなり得ます。
ここで言いたいことは、「正論」も前提があるからで、見方を変えると全く異なる答えが見つかるかも知れないということ。
持論を持ち寄って、相手の意見を論破したとしても、やはり前提を覆せば結果は変わってしまうでしょう。
つまり、「正解」というものは存在しても、それを納得し受け止めるからこその話で、自分はそうではないと思えば、どんな正論もその人にとっては意味がないのです。
人はなぜ生まれて来たのか?
自分が生まれた理由や目的を考えても、答えなど見つからないかも知れません。
その理由は、そもそも論として生まれた理由や目的が「自分のため」ではないのかも知れないからです。
にも関わらず、「自分は何をしたいのか?」と悩んでも、その答えは「自分で納得する」他にはありません。
例えば、あと1m避けていたら、濡れずに済んだということがあって、その1mを避けることができるのも生きているからこそです。
「あの丘の先まで行ってみよう!」と思って、実際に歩けるのも生きていなければできませんし、生きているからこそ行ってみることに意味があると思うのです。
しかし、介護士として施設で働くと、どんな人もいつかは老います。
思ってもできなくなり、その内に思うことさえしなくなるでしょう。
それを悲しむかも知れませんが、そうやって老いることでその人生をいい感じで綴じられるのです。
だからこそ、体が動いて、してみたいと思うことがあったら、迷わずに行動してみましょう。
他人の迷惑になることはダメですが、どんなにつまらないと思われても、継続することで初めて発見できることもあるはずなので、要するにやってみなければ分からないということです。
「正論」も前提次第だといいましたが、「つまらないこと」も「つまらなくする」か「楽しいものにする」かは、その人の心の持ちようだということ。
これは、youtube で絵を公開しているのですが、「絵が上手い」から観てくれるのではなく、「続けている」から立ち寄ってくれるように思うのです。
つまり、「楽しく絵を描くこと」がそのチャンネルの存在意義で、活動のモチベです。
義務化されて続けていても、不思議とその雰囲気は伝わるもので、観ていても段々と辛くなってしまいます。
それでは、気楽に立ち寄ることも出来ません。
そんなことを書いていて思ったことですが、人付き合いも同じですよね。
話上手なことやコミュニケーション力の高さが大切なのではなくて、その人なりに接する気持ちが伝わっていれば、他人もその気配りを察してくれるからです。
しかし、分厚い壁を作ってしまうと、何となく声を掛けづらくなってしまうので、気になりつつも距離ができて、やがては別々の場所へと移動してしまうでしょう。
合わない人に合わせる必要はありませんが、最初から壁を作る必要はなくて、でも上手く話そうと思う必要もなくて、「おはよう」とか「ありがとう」とか、そんな気配りさえしていたらいいように思います。
言葉が大切なのではなくて、自分なりの気配りが伝わればそれで十分だということ。