「どう生きるべきか?」について

「 人」として生きるなら

我々には、「人」として生きる方法と「人間」として生きる方法の2つが許されています。

両者の決定的な違いは、「人の中で生きる」をどれだけ自身の生き方に影響させるのかでしょう。

ビジネスを始めるために、よく「ヒトモノカネ」と言ったりしますが、その解釈はどうであれ、ある意味で正論ではないでしょうか。

つまり、「人の中で生きる」という視点で考えるのなら、自身の正論や持論はあまり意味を成しません。

むしろ社会がどう動き、だからこそ自身がどう動くべきかを考えなければ、「人の中で生きる」ことは上手い行かないでしょう。

かと言って、社会が全て正しいという話ではないので、ただ従うだけでは「人の中で生きる」ことはできません。

成功した体験や失敗した経験を照らして、何がどこで成功と失敗の分岐点だったのか、しっかりと検証しなければ、この先の結果も社会に翻弄されるでしょう。

大きな社会の大原則を無視すれば、「人の中で生きる」ことはとても単純に見えます。

しかしながら、大きな法則を無視して行う行動は、いつかそのツケを支払う時が来ます。

それを当然と言ってしまえば、そうなのですが、もう少し深く考察すると「あるタイミング」があって、その時に軌道修正できたかがその後を変えたりもします。

つまり、最初から最後まで一点の曇りもないような話は稀で、最初は無知や興味本位だったことも、途中で学ぶことができれば行く末を変えられるのです。

「正しいこと」は何ですか?

そんな質問を社会に投げかけても、多分誰も答えてはくれないでしょうし、仮に答えてくれた人がいても、5年後、10年後も同じ考えとは限りません。

大原則としての「正しいこと」ではなく、一般的な意味での「正しいこと」は、人として生きる限り絶えず変化しているからです。

学歴が個人を社会に導いてくれる!?

いい大学を卒業したからと言って、その人が素晴らしい人とは限りません。

まして、そんな素晴らしい人なら、社会の中で悩んだりしているこみちの前に現れるでしょうか。

これも不思議なもので、出会えるか否かがポイントではなく、忙しい人は自由な時間がありません。

なぜなら、持っている時間を忙しいことに使いたいからです。

寝ても覚めても…。

そんな時代を当たり前に過ごしているので、誰かとたまたま出会うということの方が稀なはずです。

どんなに素晴らしい肩書きだとしても、そこにいるということは何かそうなる流れがあるからです。

こみちが漠然と「こんな人と出会いたい」と願っても、それが叶わないのは当たり前の話です。

どうすれば、そんな人やモノやお金に出会えるでしょうか。

今の自分からどれだけ変えられるのかがポイントで、何を変えるべきなのかを社会から学ぶべきです。

つまり、思い込みでマイルールを延々と繰り返しても、それが稀な当たりで成功に繋がることもないとは言えませんが、何を学ぶべきかを理解して行動している人と比べて「当たり」になる可能性は低くなってしまうでしょう。

まして何も行動していなければ、偶然すら起こり得ないので、夢が叶うこともないでしょう。

確かにこの先、AIが我々の生活を一変させてしまうかもしれません。

しかし、それは「人間」と「AI」の関係で、「人」とではありません。

つまり、我々は「人」として生きる限り、「AI」に生活を奪われることは無いのです。

それはAIの導く正解が、どこまで行っても人や社会の正解にはなり得ないからです。

主観と客観の違いみたいもので、理論的にどんなに正しくても、我々には受け入れ難いことがあるから「人」なのです。