親との同居で気づいたこと
段々と老いて行く両親との暮らしは、ある意味で「諦め」の葛藤でした。
こちらが優しくすると、親も優しさを提供してくれますが、その優しさが望んでいることかは分かりません。
最近、母親の買い物は老いもあって同じものを何度も繰り返し買って来ます。
人参が続いて、今度はピーマン、しめじ。
人参の時は肉じゃがやきんぴらなど、頻繁に作って減らしたのですが、気づくとまた増えているの繰り返しです。
「やっと減らしたいのに…」
「無くなって来たから!」
そして、油や味噌、醤油など料理に欠かせない調味料たち。
全く買って来ません。
油などは、サラダ油、オリーブオイル、ごま油をそれぞれで使うのですが、揚げ物などではサラダ油を使います。
冷凍のポテトを買ってくるのに、サラダ油の残量は全く気にしていない。
これって、全てのことに通じるのですが、「食べたい」は本能で分かります。
「ポテト」は食べたいを具現化して。
でも「だからどうする」という手段を考えることが老いると圧倒的に苦手になるようです。
この前も両親が好きなりんごが冷蔵庫にしばらく置いてました。
普段は放置するのですが、りんごをむいて皿に入れてあげました。
それを不定期で二回。2個残っていたりんごをやっと使い切ったのです。
すると翌日、りんごが5、6個買ってありました。
母親の脳には「買ってくれば食べられる」とインプットされたのです。
つまり、味噌や油を買って来ないのは、普段から料理をしない母親には見えていない食材だから。
そんなものが無くても、「買ってくれば食べられる」と覚えてしまっています。
(年齢という区別ではなく、思考力として)老いてしまうと、手順が簡略化されるようです。
時間的にタイミングを外すとか、先にこっちから始めるとか。
ワンパターンになってしまうので、順番が変わったり、半分だけしたりができません。
「何でそんなに買って来るの?」
そんな話を何度もしたのも、「買う」というとそれしかできないのです。
朝夕の食事を作るのですが、母親は「足りないかも…」っと一品出来合いのものを買ったりします。
今朝で言えば揚げ餃子。
朝からって感じですが、「足りないかも」の答えは朝から揚げ物ということも仕方なくします。
そして、約400円もします。
それを結構な頻度で買って来るので、「足りないかも」の気持ちで月に1万円以上は多く食費が掛かっています。
しかも、家族からのウケも良くないので、「朝から…」という贅沢な無駄と直面します。
母親にすれば優しさの表れなのですが、その優しさの出し方もワンパターン化してしまうので、家族としてはしてもらって嬉しいのか、気持ちを受け取るために流しているのか、とても微妙な感じです。
本当にして欲しいこと(味噌や醤油を買う)は、してくれないので。
今年もそんな葛藤と向き合って来ました。
老いはこれからさらに進んでしまうと思います。
そのうち、買い物を頼むこともできなくなる日が来るでしょう。
だから家族そろって年越しできそうです。
来年は、ささやかでも幸せな日が続きますように。