もしも「人生とは?」と若い世代から聞かれたら…

 人生が上手く行くのかどうかの分岐点に

基本と例外が何にでもあって、人生に関してもそれは同じだと思う。

だから、ここで話すのは「基本」の部分で、例外もあるし、そうでなくても上手く行くことがある。

この手の話は長くなってしまうから結論を先に言ってしまうと、「人生」は人と人によって作られるものだから、「どれだけ他人に役立つ人間になれたのか」が人生ではないかと思う。

ただ冷静に考えると、一般人が一生の間に名前を覚えて挨拶し、自身の人生の一時期だったとしても時間を共有できる相手というのは、全人口の何%だろうか。

つまり、経験もその何%に基づくもので、まだ出会えていない相手ばかりと出会う人生だったなら、その人生は全く別物だったかもしれない。

しかし、自分が自分のままであるなら、どんな相手だとしても、結局は同じような印象を持たれて、それからコミュニケーションが始まるから、やはり仲良くなれるタイプは似ているだろうし、挨拶してもそれで縁が無くなる人もやはりいる。

ということは、人生を変えるには、自分から変わることでしか変えられないとも言える。

そのためには、どれだけ役立つことを身につけて、それをキッカケにして縁を作って行けるのかだろう。

こみち自身、数こそ少ないけれど、信頼できる友だちができた。

遊んで楽しいとか、話が合うとか、友だちになるにはいろんなポイントがあるけれど、「信頼できる」というのはとても貴重な存在だと言える。

「信頼」とは何か。

こみちは、価値観が似ていて、ダメな時にも嘘をつかずに言える関係だと思う。

大人になると、1回、2回会っただけでは、とてもいい人に見える相手にも出会う。

でも逆を言えば、数回なら人は自分を隠せるし、全く異なった印象に思わせることもできる。

信頼していたけど、裏切られた。

「信頼」するには相応しくない相手を見抜けなかったということでもある。

小学校、中学校、高校、大学や専門学校。

自身の成長や希望によって、進学すると、そこに集まる学生たちは境遇や生まれ育った地域が違っていても、どこか共通点がある。

しかし、そこから社会人になって、会社勤めが始まると、学生時代の居心地の良さは失われて、世間という厳しさに出会う。

でもなぜ世間が厳しく感じるのか。

それは、学生時代なら当たり前だった感覚が、もっと広い世界では失われてしまうから。

どう考えても正論で、合理的な方法を知っていても、世間ではそれが必ずしも採用されるとは限らない。

言ってしまえば、そこに意味や価値があるのかということから悩んでしまうだろう。

ただ嘆いていても解決できないので、自分が変わるしかない。

つまり、最善の方法を知っていることではなく、その状況で何が最善なのかを考えること。

すると最初は気づかないかったけれど、話は分かる人がいることにも気づく。

それは学生時代とは異なるから、社会人になって何年後かは分からない。

でも、人生を振り返ると1回や2回はそんなタイミングが巡って来るから、その時のためにコツコツと自分を信じて他人に役立つ人間に成長することだ。

注意して欲しいのは、難しいことである必要はないということ。

むしろ簡単なことでいいから、いろんな分野を知ること。

なぜなら、その道の専門家は巡り会える人の中にいる。

必要なのは、「信頼される自分」になること。

なんだかんだ言って、結局は人生ってこれなんじゃないかと思う。