自分が壊れて行く

「 認知症だから」で全て済む話なのか?

人間は、表情や仕草、言語を通じてコミュニケーションを図る。

でも、相手が想像以下の反応を続けると、こちら側も段々と不安に感じ、やがて大丈夫なことにも落ち着かなくなって来る。

正に、両親との触れ合いがそうなのだ。

料理を作れないからというから、こみちが朝と晩の食事を作っているが、なぜか作っているのに母親は自分たちのためにオカズを買って来る。

その理由を考えると、「妻としての誇り」という意識がどこかに残っていて、毎日家事をするのは大変だけど、食事の提供にどんな形であっても関わっていたいのだろう。

しかし、こんなことも起こる。

冷凍された肉をチルド室に移動させて、翌日に使おうと準備していたら、いつの間にかまた冷凍庫に戻されていたりする。

戻しているのは母親で、なぜ戻すのかは理由がよく分からない。

しかし、戻してしまうと朝食用の食材に困る。

そう思うからこそ、前の日に解凍していたのだから。

ご飯を食べた後、食器を洗ってはくれるが、食器棚に戻してはくれない。

山積みにして放置するのを誰が片付けることになるだろう。

生ゴミの処理も同じ。

元々は父親の担当だったが、していないことが増えて、最近は全く触りもしない。

気づいたこみちや妻が片付けることになる。

言えば、10分の話。

でも、それが10個、20個となれば、毎日の家事は負担が増える。

少し前までは、それでも耐えていた。

両親が自分たちのするべきことをするために時間を多めに取らなければできないのならと思っていたから。

でも実際は、したいことだけして、面倒なことは押し付けることが増えて来た。

できないことをお願いされるのではなく、「お茶!」とか「あれ取って」のようなことが増えている。

それをしたくないのではなく、例えば父親は糖尿病で、運動不足が問題になっている。

母親は何を思っているのか、アイスクリームを大量に買って来る。

そして、父親は毎日アイスクリームを食べてしまう。

そこからの些細な頼み事だ。

現状が良いわけでもないし、例えば父親にもっと深刻な介護が始まれば、その負担はこみちたちに来る。

できないことが悪いのではなく、できないから方法や手順を見直すべきなのだ。

でも、両親は自分たちのやり方を少しも変えてはくれない。

できずに放置されたままを黙って処理するのがこみちたちなのだ。

「もうよくない!?」と思ってしまう。

なぜなら、こみちだっていろいろ悩みや不安を抱えていて、でも両親の介護もしなければいけない。

なのに、今の姿はとても継続させたいと思っているようには思えない。

感謝されることもないし、変わらず好き勝手するし、結局は助けられていることの意味が分かっていないようだ。

見放されて、距離を置かれて、孤立して生活が不便になっても、それで良いと思っているのだろう。

言えば、こちら側の願いや押し付けに過ぎないのかもしれない。

だから、自分を壊してまで頑張る必要はないし、「ついで」の範囲で手伝えばいいのだろう。

それ以上は互いのためにも無理しないことだ。