「変わって欲しい」は「願い」ではなく「生きるため」

 ここ2年くらいの話

結果的に見ると、両親が生活習慣を見直すことはできませんでした。

老いたことが原因でもあり、これまでの生活習慣に慣れてそこから抜け出せないことも理由でしょう。

両親の生き方は、目の前ある使えそうなものを見つけて消費しながら次に進むというもの。

目端が効くタイプの人に多い生き方です。

例えば、目の前にコップが並んでいて、そこにジュースが注がれていたとしましょう。

喉が特に渇いている訳でもない時でも、サッと量が多そうなコップを手にします。

得な方を見つけ出すことは、人間として優れている長所でしょう。

しかし、競争が前提ではない家庭内でそれを行うと、本当に喉が渇いた人がジュースにありつけなかったりするのです。

たとえとして「ジュース」を使いましたが、「時間」や「お金」、「チャンス」などに置き換えると、手が早いということをそのまま活かすだけでは全体として前に進めないことも起こります。

「変わって欲しい」というのは、それまで両親だけの暮らしでは特に問題なかった話も、同居していると改善しなければいけない部分がいくつか見つかります。

特に「気づいた人がする」というルールでは、消費行動しかできない父親は全く期待できない一人になり、言ってしまえば他の家族が補うしかないことになります。

「父親は料理を作れないから、家族の誰かが家に残って食事の用意をしなければいけない」

そんな風に誰かの一歩がないことを、他がカバーするというのは、それだけをしていればいい状況なら大丈夫でも、それぞれがまだまだしなければいけない時には、大きな負担でしかありません。

しかも、今の両親がしている行為の大半は、二人のために行うことで、家族として役立っていないことも問題です。

母親に食費を手渡していますが、最近は買い物が上手くできていないこともあって、別途でこみちや妻が買い足している部分も増えています。

一方、両親が昼に食べる食事が弁当だったりと、割とコストを掛けているのも気になります。

忙しい時に弁当を上手く使うのはいいことですが、「時間」と「お金」というバランスを考えることもしないで、「楽」だけを選んでしまうのは問題です。

朝晩の食事をこみちが用意しているので、せめて昼くらいは糖尿病の父親が健康的に食べられる食事を母親が用意してもいいでしょう。

もっと言えば、父親自身が健康に暮らすために自身の食事を作ってもいいはずです。

でも一切しません。

むしろ、朝晩の食事が割と塩分などを気づかっているので、昼に揚げ物をたくさん食べるような感じになっていて、言ってしまえば「得」を簡単に消費してしまうのです。

時間的に楽になると、それまで手付かずだったことを始めてくれればいいのですが、特に急ぎではないことを始めてしまうケースが目立ちます。

それは、何をしなければいけないのかが根本的に理解できていなからで、常に「得」だけを選んで生きてしまった結果、生命や健康を損なうようなことであっても、手付かずにしてしまいます。

それこそ、全てをお膳立てしない限り、両親は一歩も変えてはくれません。

もうこんな暮らしに疲れてしまいました。