「介護」を考える時に「原点」に立ち変える話

 なぜ「幸福」を感じるられるのか?

まず、三度の食事に不安がなく、雨風が凌げて、好きなことをし続けられたら、多くの人は大きな不満を感じないのではないでしょうか。

加えて、接する対人がとても親切で、好意的なら、さらに満足度も上がります。

言ってしまえば、青年時代、「将来は〇〇になりたい!」と夢を見たとしましょう。

それが叶うか、叶わないにしても、それに向かって頑張れていたら、それができなくなる時よりも幸福度は高いはずです。

しかし、その夢が「アーティスト」で、でもオーディションにずっと不合格で、審査員からの評判も思わしくなく、さらに日常生活では生活費にも困っていたら、考えるべきことは「このままで良いのだろうか?」ということでしょう。

夢を諦めないにしても、生きて行くためには生活費が必須なので、夢以外に仕事を探し、追い続けるための環境を整えなければいけません。

生活費を切り詰めたとしても、全く食事をしないとか、夢を追いかける最低限の出費はあるはずで、それまで失ってしまうともう夢を叶えられる可能性さえ奪われます。

簡単に言ってしまえば、若い頃というのはそんな選択を何度も繰り返しながら、夢と現実を最大限に満たそうと頑張っているのです。

何なら、夢見ないで現実的に生きるという生き方もありますが、その人らしさは薄れやすく、「〇〇さんの趣味は?」という質問にちょっと困ってしまうかもしれません。

単に無趣味ということに悩むのではなく、「生きて得たこと」を改めて振り返った時に、何も思い出すことができないので、折角の人生を楽しめているのか疑問に感じることもあるからです。

しかし、そんな話も平和な日本だからで、国内でも自然災害などに直面すると人間の暮らしはとても脆く簡単に壊れてしまうので、そう知ったなら「夢」を叶えることがどれだけ幸福なのかを感じるでしょう。

老いた時に、人は保守的になります。

今までの暮らしを続けたいと思うでしょう。

しかし、老いることでできたことができなくなり、できたとしても時間が掛かったりします。

結果的に、以前なら30分程度のことが3時間も4時間も掛かれば、諦めるしかなくなります。

「介護」というのは、老いによってできないことやでき難いことを支援することと考えると、やはり今の暮らしを見直して、方法を変えるという若い頃なら幾度も繰り返した選択ができなかったりします。

周りから無理だと指摘されても、それに向き合い修正する余力がなくなっているので、ダメでも繰り返すことしかできません。

例えば、車の運転は「能力」の部分以外に事故によって他人を巻き込む恐れがあります。

しかし、高齢者にとって「運転」はできか否かを判断しがちで、言ってしまえば「リスク」まで考えるのは難しいことです。

言ってしまえば、年齢など関係なくて、事故の危険性をイメージし、自身の生活を選択できるなら、何も介護は必要ではありません。

リスクの高さに気づかずに、できると思って諦められない状況になった時に介護が必要で、ある意味でできないことを理解してもらうためのアプローチが介護になります。

つまり、「ダメだよ」では分かりません。

それで分かるなら介護ではないからです。

理屈を並べても理解が難しい状況で、どんな風に接すれば「運転を諦めるしかないか…」と思ってもらえるまで持って行けるかが課題です。

言葉でも、理屈でも通じないので、相手に対する想いをキッカケに信頼されて委ねてもらうしかありません。

簡単に使うべき言葉ではありませんが、「愛情を持って接する」以外にはないかもしれません。

なので、こちら側も冷静で大人な対応だけではなく、泣いたり怒ったりしながらも相手のことを思って判断していることを日々の生活で伝えるしかないでしょう。

そして、できるだけこちらが笑顔で接することで、人は安心し心が落ち着きます。

自分を犠牲にし過ぎる必要はありませんが、できることはしてあげることが結局は「介護」なのかもしれません。