「偉人の伝説」
普通の人ではできないようなことを「偉人」は成し遂げる。
それは「伝説」として後世にも長く語り続けられる。
子どもの頃に「偉人」の物語を何冊も読んだ。
いろんな偉人の話を読んで、子どもながらに「夢」を描く。
大人になって感じる疑問
陽の当たる部分を綴った子どもの頃に読んだ本。
大人になって、もう一つ別の顔があることも知る。
大きな偉業に挑んだ一方で、自分と同じ「日常的な部分」。
例えば10年という人生を「夢」のために費やすのは、偉人ばかりではなく、いろんな人がしていること。
夢に向かう時間の陰で、多くの人は「普通の人」として生活し、働いている。
「この偉人って、仕事は何をしていたんだろう?」
ふと思う大人目線の疑問。
子どもの頃は気にもしなかった。
そして、大きな夢だけを掲げ、それだけに生きていた人だと知る。
「つまり、生活面も支援してくれた人がいたということかぁ」
夢がどれだけ大きくて、世の中にとって有益なことだとしても、夢が叶うまでを支えてくれた人がいなかったら、「偉人」にはなっていないだろう。
まして、そんな支援してくれた人とのその後がハッピーエンドでなかったら…。
「嗚呼、そうだったんだ」
さらなる夢を目指して、また別の支援者に支えてもらいながら、突き進んでいく人生。
何の見返りも求めないで捧げた「10年」は、何だったんだろう。
それは成し遂げた「偉業」のために、仕方ないことだったのだろうか。
大人になって、まぁこみちも普通の人とは言い難いけれど、偉業を成し遂げることよりも「普通に暮らす」ことも尊敬に値する生き方だ。
腑に落ちないことも納得できないこともこの世にはたくさんあって、でもそれをサラリと流すのは、「普通」を守るため。
正しいことを証明し、それを誇らしく掲げる人生もあるけれど、誰かのために生きるなら「普通」がいい。
確かに子育てして家事もして、いろんなことをしていたら、10年20年はあっという間に過ぎてしまう。
気づいたら中高年になっていて、振り返ると誰かに自慢できるようなことは何一つできていない。
でも、みんなそうなんじゃないだろうか。
偉人になる人は「普通の人」ができないことをする。
そして、普通の人は「偉人」にはできない普通を生きている。
ものは言いようなんだろう。
不幸と思うのも、幸福と思うのも。