親の介護は「何も変わってくれない」ということに慣れること!

 今日も晩飯を作る

今日の晩飯は、冷凍餃子を焼くこと。

他にサラダも用意しましたが、母親は全く料理する気がありません。

一方、父親はキッチンにこみちが現れる足をで、テレビを切り散歩に出かけます。

それができるなら、5年でも前からやってくれればいいのですが、ここまで行き詰まって始めました。

散歩をするのは父親のためですが、その効果をどれだけ説明しても理解しませんでしたし、するようになった今は、こみち=料理、父親=散歩なのです。

つまり、自分のためにしているのではなく、料理を渋々しているこみちに対し、父親は父親なりに散歩が頑張りなのです。

そして、料理が順調に進んでいたのを見て、母親がぶつぶつと独り言を言い出し、冷蔵庫を漁りました。

「これも早く使わないと…」

何のアピールなのか、自分で料理でもするのか、直接は言って来ませんが、そうやって自分の形を押し付けて来ます。

以前もこのような行動があって、こみちの盛り付けを手直ししたり、小分けにしたオカズを自分好みに盛りなおしたりと、作っている方にすれば「何?」と思うような行動を割と平気でして来ます。

なので、ぶつぶつと言い出し、アピールを始めたのも、自分の理想を叶えたり衝動が抑えられないのでしょう。

できないことや面倒なことからはすぐに逃げて第三者の顔をするのに、順調な時は寄って来て手を出し始めます。

今もキッチンからこみちが離れて、何かキッチンでバタバタと行動しています。

何が実際にできるのかではなく、今でも「キッチンに立っている私」を母親は大切に思っているのです。

生活の根幹を全て担えば、両親はニコニコと嬉しそうです。

しかし、何か義務や失敗に突っ込むと、急に顔がこわばります。

まぁ、それが在宅介護の初期段階ですが分かった口だけ出して来るので、エンパス気質なこみちにはとてもストレスです。

いい感じに焼けた餃子を最初に両親が好きなだけ食べて、その冷えた残りをこみちたち夫婦が食べる。

「美味しいじゃない、餃子。私好きよ!」と笑顔の母親。

妻は愛想笑いしていますが、冷めた餃子をチンしてもやっぱり焼き立てとは比べられません。

そこまで良いところを先に食べていても、感謝は口にしません。

勝手に惣菜パンを買って来ることで、そこに母親の感謝が隠れていると思うしかないのです。

しかも、「なぜこのパンを?」という物だったりして、定番でいいのにと内心で思うのです。

「コレじゃなくて!」と言われれば、否定された気分になって母親は一人で怒ります。

相手が喜ぶと思って選ぶことが大切だと伝えても、それは理解されません。

結局は、今まで通り父親も母親も自分が思う通りを繰り返すしかできません。

地域包括支援センターの担当者にお願いした施設の件も、まだ連絡はありません。

多分、こみちから連絡して、「そうですね。当たってみます!」という流れでしょう。

昨夜、近所に救急車が来ました。

詳しい話は知りませんが、割とサイレンを頻繁に聴きます。

そしてその度に、「生きている」という現実を思うのですが、こみちがどんなに声を掛けても両親が何か変わることはもうないでしょう。

言い換えれば、地域包括支援センターの担当者も、積極的にアクションするよりも、今よりも介護段階が深刻になったらまた関わればいいというスタンスでかもしれません。

それだけ、高齢者が生き方改めることが難しく、できる人であれば言われる前に始めているからでしょう。

悪い意味ではなく、あまりこだわるのをやめました。

できなかったことを嘆いても、両親は分かっていないので、それなら今できること何かだけを考えます。

切迫詰まった時まで、そのままにするしかないからです。