暴言を吐く父親と何故かその場から居なくなる母親
「運転がしたい」を譲れない父親は、こみちなどには言いませんが母親には「鍵を渡せ」と迫っているようです。
母親はそんな父親の扱いに困りつつも、父親のプライドを守ろうとして、曖昧な態度を見せたりもします。
どこまで父親が会話の内容を覚えているのかが定かではありませんが、昨日の今日は何事もなかったようになり、言ってしまえば「鍵を渡せ!」が不意に始まるのです。
昨日、父親は感情をコントロールできなくなり、怒りのままに暴言を吐きました。
父親の立場になって見れば、老いを感じてはいても、それを認めたくはないという過渡期で、だからこそ「できない」という現実を受け入れることができないのでしょう。
しかし、家族の立場になれば、もしも今でも運転することを続けたいのであれば、「大人として適切な手段」で家族に説得するべきだと思います。
例えば、父親が運転できたとしても、家族で必要な買い物を担うことはできません。
もちろん、家を見渡して、不足している品を確認し買いに行くことができないのです。
そして、「コレを買ってきて」とメモを書いて渡しても、やはり難しいのが実情です。
それはこれまでの経緯から分かっていて、家族としては「運転して何がしたいのか?」という疑問に行き着くのです。
保険代や車検代、他にも車を所有していると必要になる経費があります。
その金額がどれくらいで、誰が賄っているのかもよく理解できていないでしょう。
それこそ、ハンドルを回して、アクセルペダルを踏めることが車を運転できるではありません。
「運転したい」と訴えるだけではなく、運転して何ができるのか、という部分を父親の口から聞ければまた違うのですが…。
しかし、運転以外の家事で、父親が担っていたいくつかは、既にやらなくなりました。
やっていることでさえ、決まったタイミングでできているのではないので、できない時は家族が行うという感じです。
結局は自業自得になるのですが、その状況を理解することができなくなっているのも認知低下が関係しているのでしょう。
父親は運転できないという話の時に、他の高齢者の運転を指摘することがあります。
しかし、「運転が上手い」ということが大切なのではなく「安全に運転できる」ことが求められていて、そこには「操作」だけではなく、それを含むいろんな背景や環境も含まれます。
例えば、田舎に暮らしていて、車が必要不可欠で、運転するしか生活を継続させられない場合と、運転できたとしても何か役立つことに活かせないのでは運転をする必要性が変わります。
結局、父親の場合は、運転されて喜ぶ家族はいなくて、心配や不安要素を排除する意味でも控えて欲しいのが本音です。
何より、昨日の今日、両親の生活は何も変わりません。
お願いした約束も勝手に自己判断し、ルールを守ることもありません。
いつの間にか、していたことがされなくなり、「また始まった」ということばかりです。
夕飯の食事に、こみちが料理をしました。
ですが、作り始めるのに合わせて、母親が買い物に出て行きます。
何を買って来たのかはまだ知りませんが、これが出来合いのオカズだったら、何のために時間を使って作るのか分かりません。
食費も高くなるし、食事量も減っているからこそ、いろいろと変えているのに、母親は母親で自分の存在を保つためにすぐに食べられるのような物を買ってテーブルに並べたがります。
「どこに力を入れているのか?」と思うことを、なぜか頑張る両親を見ていると、やはり介護が始まっていると感じます。