「誠実でありたい」なら最後まで貫いて欲しいと思う話

 好きで毎食を用意しているのではない!

家族の食事を用意するために、朝は五時過ぎにはキッチンに立っている。

そもそもの話として、保護するべき未成年がいないこみち家では、上手い下手は別として、空腹を満たすことくらい家族の誰もができる。

でも、未だに母親の希望で、食事の時にある程度の品数がないと父親が不満に思うと信じていて、それだけの理由で朝からまぁまぁしっかりと作る。

もう現役を退き、気まぐれで些細な家事をすることもあるが、「予定」とか「義務」として責任を持って父親がするのは無理だ。

できていない時は、当たり前のように誰かがササっと代わりに済ませるので、言ってしまえば「分担」ではなく「気まぐれ」の手伝いに近い。

それが脳の機能疾患ということなら、どんなに頑張ってもできないのは仕方ない。

しかも、母親は母親で、最近は呼びかけても頓珍漢な返事しか返って来ないほどだ。

100の内、1でも2でも手伝えば、同等だと思う父親と、そんな父親を「頑張っている」と過剰に褒めてしまう母親。

ポイントは残った99や98を母親が頑張るなら話も分かる。

でも、母親が頑張る様子はなくて、それらが全てこみちに回って来る。

朝食を作っても、当たり前のように父親が好きなおかずを買って来る誠実な母親。

朝、一人で1時間は掛からないとしても、30分以上をキッチンで過ごす。

家族分を用意してやっとこみちの朝がひと段落する。

言いたいのは、そんな料理を食べないのも自由だ。

朝も残して、昼はわざわざ弁当などを買って来て両親が食べるのもいい。

そして夕飯。作り立ての料理を食べるのもいいだろう。

しかし、朝のおかずが残って食べられないなら、せめて明日に朝食を作らないでいいと言うか、残飯として責任を持って捨てて欲しい。

食べごろを当に過ぎた料理を、なぜそのままテーブルに放置するのだろうか。

「食べ物を捨てる」という罪悪感があって、捨てられないと言うのなら、夕飯のライスを減らしてでも食べればいいし、食べ切れないのであれば、自分の責任で捨てるところまで済ませて欲しい。

誰だって食べものを粗末にしたくはない。

でも、作らせて手を一切付けないで残すくらいなら、朝食を作ること自体を辞めたいのに、母親は頑なに「品数がないと」と父親のことを一番に思う。

その癖、嫌なことや胸が痛いことは、平気で誰かに押し付けてしまう母親。

父親に対して「誠実」でありたいのなら、その後も自分で責任を持って欲しい。

誰かの労力や努力を使って体裁を整えて、一方には「頑張る自分」で他方では「ズルい人」になっていないか。

「食べられないならもう作らなくていいでしょ?」

そんな問い掛けをもう何度繰り返したことか。

しかも作るための食材を買い、別途で弁当や惣菜を買って来る母親。

それでは食費が嵩むばかりで、もっとコストを掛けたい部分は他にもたくさんあるのに。

夜、父親はテレビを幸せそうに観て、「プロ野球、どっちが勝つかなぁ」と独り言を言っていた。

難しい問題、困難な問題、頑張って向き合うべきことには逃げて、そんな父親と母親。

本当にそこまで整えてあげる必要ってあるのかと思う。

父親はテンションが下がると「生きるのが…」と言い出す。

でもね。毎日、こみちだって何をしているんだと思って落ち込んでいる。

朝晩の料理に洗濯に掃除に…。

頼んだ買い物は、肝心なものがなくて、何に使うのかわからないものを買って来る。

「こんなの買って自分で作るの?」

料理することを考えて買い物するのではなく、気分で買って来る母親。

「メモして買って来たら?」

そんな忠告も何度しただろう。

で、何も直そうとはしない。

一切、譲らないで好きにするなら、こっちにも自由をくれと思ってしまう。

でも、母親は母親で認知機能が低下していて、認知症にならないように予防しないといけない段階に近づいている。

何でも嫌なことを他人に押し付けないでくれないだろうか。

と言いたいけれど、老いていく親の介護は、どちらが正しいかどうかではなく、段々と不条理なことばかり起こる日常をどう生きて行くかの試練だ。