「3食食べられて雨風しのげる暮らし」が難しい!?話

 人生の意義を考える前に

夢の話や、そもそも夢があるとかないとか。

「自分は3食食べられて、寝る所があればそれ以上は望まない」と思うとしたら、それが人生の意義であり、最も最初の叶えたい夢かもしれません。

最も不幸な状態を「0」として、最も幸福な状態を「100」とするなら、「健康的に暮らせる」という状況はおそらく「90台」に到達しています。

つまり、もう十分に幸福で、それ以上を望まなくてもいいと言えます。

多分、最も不幸な状態「0」から「30」くらいまでは、自分の努力だけでは解決できない問題が複数存在し、夢を叶えようと思って努力しても自分とは関係ない所がネックで一向に改善する余地がない領域ではないでしょうか。

「生きることが辛い」と感じることは、決して珍しいことではなく、むしろ多くの人が時々はふと感じることで、だから今の歩みを止めてしまうかは別ですが、やはり解決できない問題のことを悩んでしまうと気持ちは滅入ります。

こみちはそんな時に、「時間に預ける」ようにしていて、アレコレと不安材料を想像して落ち込むのではなく、先ずはその問題から気持ちを切り離して、別のことを始めます。

何も解決に向けて行動しないので、いつまでも解決はできませんが、不思議なもので、どんな結果かは分かりませんが、時が経過することで選択肢は制限されて、じゃあこっちにしようという解決ならできたりします。

というのも、特に自分の頑張りだけでは解決できないような問題は、悩んでも答えなど決まりません。

なぜなら、状況次第で答えが変わってしまうからです。

だとしたら、そんな時に悩んでも時間の無駄なので、考えて意味があることに時間を使います。

だから難しい問題は「放置する」というのも解決方法です。

例えば、こみちは両親の介護が少しずつ始まっていますが、やきもちしても両親は思うようには行動してくれません。

時に「なんで?」ということに時間を割き、こみちには理解できないことも珍しくありません。

それにいちいちストレスを感じても無駄なので、いい意味でも好きなようにしてもらえればいいと思っています。

できないことや間違えていることは、やはり時間が経過しても解決できていません。

そうならないように心配しても、全部をコントロールするのは不可能なので、結局はその時にできることから選んで解決するしかないのです。

もう少し早くから始めていたらということも多いですが、それを思いすぎるとメンタルを壊します。

そうなるくらいなら、少し結果が思ったのと違っていても、気にしないことです。

どんなに不幸な状態でも、不幸を忘れていられる時は幸福しかありません。

ある意味、それでいいんだと思います。

特に自分ではどうしようもないことは、悩んでも仕方がないので、しばらく放置しましょう。

もしも様子が変わらないならまだ放置したままでいいはずです。

その間に、自分で解決できることや幸福を噛み締めましょう。

思うに幸福と不幸があるのではなく、不幸の特に自己解決できない状況は自分ではどうすることもできません。

つまり頑張るとかでは解決しないので、環境を変えるとかそもそもの問題を切り離すとか、判断するべきポイントが違います。

先ずは努力して夢を叶えられる所まで、幸福に近づくことが大切だと思います。