「介護される人」になるまでの空白

 「介護」される人になるまで

現役を引退しても、まだまだ若々しく活動的な暮らしが続きます。

感覚的には、定年退職して20年くらいは趣味などを楽しむ時間が待っています。

その間、少しずつ老化現象を感じ、人は生き方や終活について考えるのだと思いますが、それでも「介護」が始まるとは限りません。

「介護」と似た意味ですが、あえて「保護」という言葉をあえて使いますが、自立支援を目的としたサポートを「介護」とするなら、「保護」は全面的な支援を指します。

人によっては、現役を退いて長年の夢ややり残したことに挑戦する時間として老後を楽しむと思いますが、それは誰かに与えられるものではないので、仕事とはまた異なる「興味」や「根気」を伴います。

「趣味を楽しむ」と言うのは簡単ですが、実際には時間やコストだけではなく、楽しもうとする気持ちがなければ趣味を持つことができません。

仕事だけしかしないで老後を迎えてしまうと、実は無趣味だったことに後から気づき、何をどう始めていいのか分からないということも起こります。

特に高齢者の場合、「億劫」ということが生き甲斐を狭めてしまうので、趣味なども持たないまま過ごしてしまうことも珍しくありません。

こみちの父親の場合

父親の場合、仕事を辞めてもう10年以上が経過しますが、その間に趣味という趣味を持つこともなく、言ってしまえばテレビを観ることくらいしかしていません。

以前なら誰かが何かしていると、そこにちょっと顔を出すこともありましたが、結局は主体的に何か始めるということがなかったのです。

例えば、父親は割と器用でなんでも上手くできる方です。

しかし、それと趣味を持つことは全く別なので、「興味持ち続ける」ということができませんでした。

というのも、「趣味を持つ」というのは意外と難しく、楽しむ気持ちを自分で作り出さなければいけません。

知識を蓄えたり、情報を集めたり、億劫に思うと趣味が続かないからです。

一方で、「介護」をいう視点に立つと、趣味はあってもなくてもいいものではなく、少し無理をしてでも趣味を持つべきです。

というのも、それが社会性に繋がり、孤独感や孤立感から守ることができます。

意欲を失い、限られたことしかできない暮らしをしてしまうと、認知機能やコミュニケーション能力、言語力などが低下します。

たまにしか人に会わなくなると、言葉が出てこないなど、悪循環を生み出し、ますます孤立感が強まります。

父親の場合、母親からの助けや、こみちの援助も得られるので、その意味では自分のことだけを考えて生きられます。

ゴミ出しや掃除なども人任せにできるからです。

言ってしまえば、起きてご飯を食べてテレビを観ていたら、またご飯が用意されて、そして1日が終わってまた明日ということです。

その内、段々と老化が進み、家で介護が難しくなったら、その時は施設に入るのかもしれません。

それでも、家族の支えがあるのは、老後として安心できるでしょう。

しかし、こんな老後を誰もが送れるとは思えません。

こみちの場合は、何をするにも時間が掛かっても、それこそ子どもたちに援助させたくないからです。

実際、子どもの立場で、両親の介護を全面的に支えるのは大変で、特に決まった時間に家事をしなければいけないので、仕事を中断してしまうこともあります。

特に母親が少し認知機能が低下し、何かしてもらうと兎に角時間が半端なく掛かってしまいます。

両親の洗濯物を干すだけで2時間掛かることもあります。

なので、何か頼むのも躊躇うし、何もしなければ、認知機能が低下するので、その辺の負担をいい感じに保つのは、こみち自身が家事をする以上に難しいことです。

思えば、母親も父親の世話で随分と自分の時間を費やしたでしょう。

あと5年若ければ、趣味だった旅行にも行けたはずです。

しかし、無趣味で家にいることを望む父親の世話をしていれば、どうしても旅行は二の次になってしまいます。

介護が本格的に始まるまでの空白は、人生最後の自由な時間なので、それこそ本当にそれでいいのかと顧みながら生きたいものです。