「介護」とは何か?の前に
「人生の目的」と走る何かを考えた時に、先ず雨風が凌げて三食が食べられて、自由である環境が手に入ったらどうだろうか。
その環境下でのんびり暮らすのもいいし、興味あることを始めてもいい。
しかし、雨風を凌ぐには「住まい」が必要で、それがアパートなのか、マンションなのか、一戸建てなのか、間取りや内外装の質感やデザインは…とそこにも多くの選択肢がある。
三食についても、外食もあれば、弁当というのもあるし、家で作るということもある。
結局、どれがいいということではなく、「選べる」ということに自由があり、選ばされていないことに意味がある。
ということは、先ず何より、人は何処でどんな風に生きたいのかがなければ、始まらないとも言える。
「何でもいい」が人生の選択肢に起きてしまうと、それは「選べる」ではなく「選ぶしかない」になってしまうからだ。
その意味では、「選べる」という自由を持ち続けることが人生には大切ではないかと思う。
「介護」とは何か?
例えば、ある高齢者が、介護されていたとする。
起きる所から始まり、寝るまでをサポートされているとしよう。
「朝食はコレを食べて」と言われて提供された食事。
何も考えなくても用意しなくても出してもらえるのは手間が掛からないけれど、「今日はコレを食べたいなぁ」が叶えられることに幸せもある。
「コレを食べたいって言ってましたよね?」と昨晩の希望が翌朝のメニューに反映されていたら、気持ちが上がらないだろうか。
「食事を提供する」ことが介護ではなく、「選択肢(自由)を選べる」ということが介護だと言える。
なぜなら、介護される前は、自然と自分でそれを選びながら毎食のメニューを決めていたと思うからだ。
現役時代、全く料理もしないで、出された食事をただ食べていたという人は、介護になって誰かが用意したメニューに不満がないかもしれない。
つまり、食事面で「自由」を感じていないから、特に制限も受けないのだろう。
同様に、住まいについて、その他の生活面で、と考えた時に、「自分なりのこだわり」があるからこそ、自分の人生なのだと思う。
それが相手に完全なる依存になってしまうと、「介護」ではなく「保護」のようなものになってしまう。
こんな風に生きて行きたい!
例えば、思い出の場所やずっと思い続けて来た関心事など、いつかそれを叶えたいと思うことがあって、でも日常生活に追われて歳を重ねてしまうことも多い。
老後、そんな夢を叶えて計画を立てるのも、老いてからの楽しみになるだろう。
できれば自分でそんな「夢」を持つことが大切だけれど、時に加齢によってそんなことも思いつかなくなってしまう。
それだけ「受け身」になりやすく、「介護」ではなく「保護」になることが珍しくないから、自発性を持ち続けることが必要だ。
「旅行に行く」という夢があるから、毎日、時間を見つけて散歩を欠かさないという暮らしと、何の目的もなく言われて「歩かされている」のでは満足度が全く違う。
結局、自分自身で「選べる自由」があると、それが生き甲斐になる。
現役時代の生き方次第!?
実は「介護」も現役時代の生き方で決まる。
なぜなら、老いてから「自由」と言われても、それを活かすことはできないからだ。
「趣味を始める」ということも、興味を持つということがそもそも難しい。
知識や技術、経験が豊富な人は、興味持ちやすいが、何も意識しないままに老いてしまうと「何すればいいのか?」よく分からないからだ。
だからこそ、現在時代の内に、老後は「コレをして楽しもう」ということを何個か見つけておくといい。