「これでいい」と勝手に結論を決めてしまう両親の生き方

 「介護」など必要ない!

「今のまま」が続けば、それで満足できると両親は感じているのでしょう。

脳内出血でも後遺症が少なかった父親は、「今のまま」に我慢しつつも、あと車の運転さえ元に戻せれば、十分だと思っているのかもしれません。

運転ができるかできないかの前に、父親専用に車を一台確保するには、どれだけのコストが掛かるでしょう。

最後の一台として、もう買い換えなどは考えないとしても、車検に保険代、ガソリン代に修理代と、ざっくり月に換算すれば3万円くらいは準備したいものです。

実際には別途駐車場を借りているので、それをプラスするとさらにコストは膨らみます。

父親の凄い所は、記憶や判断が冴えている部分とごっそり抜けてしまう部分があること。

父親にコストの話をしても、全く理解できません。

日常生活で父親だけのために買っているものがいくつかあり、それだって月に1万円は準備しておきたい話です。

さらに医療費なども定期的支出し、食事代など生活面でのコストを考えると、年金だけでは賄えていないはずです。

最近、父親の病院通いを家族が連れて行くのですが、例えばこみち夫婦の車を使って、時間とガソリン代を消費しても、「ガソリン代だ!」と言ってくれることはありません。

これは母親に関しても同じで、今日と明日、母親も病院に行くので連れて行くことになってしますが「明日もよろしくね」とは言っても、そこでコストが掛かっていると考えてくれません。

以前、両親が旅行から帰って来た時に、荷物が多いからと連絡をよこし、こみち夫婦で指定された場所まで車を回しました。

「いい旅行だった!」と話す両親でしたが、高速を使い急いで向かったのに、「コレ取っておけ!」とは言ってくれないのです。

別にガソリン代が欲しいという話ではなく、両親が思う「これでいい」は、多くの場合、周囲が助けて成立しています。

そのことが今も起こっていて、両親は今の暮らしで「我慢する」ということですが、実際にはそれさえも既にかなり負担しています。

実はもう「介護」という意識に考え方を変えて、これまでお願いしていた些細な約束もできていなければ黙ってフォローするようにしています。

それを父親はチラリと見ていますが、「オレがする」とは言いません。

結果、どう思っていても行動には移せないので、期待してもしょうがなく、「介護」として考えるようになりました。

後からでも気づいて

変われる人は、その時に気づかなくても、いつか変化する時が来ます。

しかし、変われない人は、どんなにチャンスを与えても、違う意味で理解し、変われません。

方法を変えれば、もっと幸せになれたかもしれないのに、ダメとなっても変われない両親にストレスを感じます。

自分のことなら失敗しても前に進むことでそんなストレスは拭えるのですが、黙って落ちて行くことには耐え難い苦しさがあります。

しかもそれを理解できない両親なので。

「俺はまだ運転できるぞ!」

ある意味で、それだけ見当識を低下しているのでしょう。

考えるべきはそこではなく、幸せに生きるために死守するべきポイントです。

今は大丈夫だとしても、3年後には同じような悩みにぶつかり、その時は「運転できるか?」だけしか検討項目にできないでしょう。

他は全て他人にフォローされているのに、まだ自分のアイデンティティを守ろうとする固執ぶりに、逆に老いを感じてしまいます。

車の運転を希望する理由が、母親の介護を考えてという話でも出てくれば、活かせる方法を家族で考えることもあったでしょう。

しかし、今の様子を見ていて、今更そのリスクを背負ってまで受けられるメリットは、家族にはありません。