結論「変われません」という話
年を重ねると、昔の記憶はしっかりと残り、最近のことは曖昧になりやすいと言います。
実際、両親の反応を見て思うのは、「残っている記憶」に「その場の気持ち」で言動しているように思います。
つまり、「昔の記憶は鮮明」という部分に関しては、日時や状況も厳密には事実と異なり、思い出として語る時も「その時の記憶」で少しずつ変化しているのかもしれません。
流暢に語れたとしても、「事実」との違いは問題ではないので、雰囲気重視で話すことができるのでしょう。
一方、最近の記憶が曖昧というのは、本人にすれば語るに十分な記憶が乏しいので、その場で作話するにも簡単ではありません。
そのために昔話よりも聞いていて不鮮明だったり、辻褄の合わない部分が目立ちます。
歩い意味で、昔話はよく覚えていて、最近のことはあまり鮮明ではないということでもなさそうです。
つまり、「残っている記憶」に対して、本人も「事実と思い込める」のかが違うだけで、それで補い切れない部分は話の流れから作話しているように思います。
なぜそんな風に思うようになったのかというと、両親の記憶力が落ちて来たと感じ始めて、お願いしたことを覚えておくことができないからです。
ここでいう「覚えておけない」とは、例えば「午後3時に願い」と伝えた時に、「午後3時」が覚えられないのではなく、何か別のことをしていて、それが午後3時近づいて、「約束しているからこっちは中断しなければ」という判断力が低下しているという意味です。
目の前のことを続ける力は割と衰えていないのですが、別のことをして大切なことを予定時間になったら切り替えるという変化に弱いのです。
父親にしても母親にしても、個別にお願いした家庭内のルールで、今でも守れていることは1つもありません。
守れているのは、父親や母親が自分で昔から行っていたことを続けているような類いばかりです。
「使ったら片付けてね」
そんな約束も、出しっぱなしは変わりません。
片付ける理由は清潔感とかではなく、邪魔になるからですが、「ここに置かれると邪魔になるから」と説明しても、その時は理解して片付けてくれますが、三日も経てばもう覚えていませんし、できていないこと指摘されたことも忘れています。
「ちょっと前にも同じ話をしたよね!?」
以前はそんな注意をしていました。
「そうだっけ?」
最初の頃は、忘れたのかミスしたのか曖昧なリアクションでしたが、段々と「覚えていない」という顔になって来ました。
最近では、「アレない」「コレがない」と探すことも頻繁で、家のカギがどこにあるのか分からないということも珍しくありません。
例えばそんな母親が、同じ食材を連日購入しても不思議ではありません。
「結局、買ったんだっけ?」という記憶が残らないので、次もまた買ってしまうのです。
今は冷蔵庫の中を見て「アレレ、買ってあったじゃない!」と自分自身にミスを突っ込むこともなくなり、既に同じ食材があっても驚くこともなくなりました。
「誰かが買って来たのだろう」
そんな風にサラッと現実を見ているようで、2個が3個になっても、4個目を買って来る可能性は否定出来ません。
「もうたくさんあるから買わないでね!」
そんな風に伝えておくと、「分かった」と覚えておけるのですが、「お母さんがたくさん買って来たんでしょう!」と伝えても「知らない」と反応します。
「買わなくていい」なら覚えていられますが、「過去の行動を指摘されてだから何をしなければいけないのか?」までを考えることが難しいという感じです。
つまり、昔話の記憶に残っていることは自信を持って話せるものの、既に記憶から抜け落ちたことも多く、その部分はその都度作話で補っているのでしょう。
商品名と個数をメモして渡せば、それを買って来ることはできるはずです。
でも冷蔵庫の中を見て、買って来る食材を記憶していられるのかは曖昧です。
父親に関しては、母親よりも記憶力が優れている部分もありますが、やはり「覚えていられる」に過ぎず、行動することはできません。
やはり、父親自身が覚えている習慣を繰り返しているだけで、お願いしたことを決められた時間に行うとなるとあやふやです。
結局、家族として話し合いするにしても、その場で感情的になりますが、そのキッカケが自身のミスにあったとしても、その事実は忘れているので、「今、できるかどうか」しか認識できていないようです。
「だから昨日、早目にしておけばよかったのに」
そんな風に伝えても、父親には言われたという記憶も曖昧で、「できない」という現実の感情が強く印象的になってしまいます。
いずれにしても、両親の反応を見ていて、もう自分から何か変わるということはできないようです。
惰性的というか、残っている記憶に従っているので、新たな決め事と組み合わせて行うのは難しいことだからです。