この夏の猛暑で
日中、家でテレビを観て過ごす父親が、「氷を使いたい」と母親に言ったことで、母親は製氷器ではなく、別途氷を作ってそれを砕いてあげています。
それをこみちや妻には、「面倒だ」と言い、何度か氷を買って来たりもしてあげました。
そして、定期的に氷を買って来るのも面倒なので、母親や父親でも扱いやすい製氷器を買って、実際に使い方も説明したのは昨日の話です。
しかし、今朝になって、アイスピックで氷を割っていて、しかも昨晩自分で別に氷を作っていたというのです。
「面倒だ」というのは、本当に面倒だではなく、それだけ父親にしてあげているという自己アピールだったです。
だから、実際にもっと楽になる方法を用意しても、それに移行しないのは、頑張りが伝わらなくなってしまうからでしょう。
介護とは、できないことを助けることですが、いきなり能力が低下するのではないので、高齢者にもプライドとか誇りがあって、大変だと言いつつもこなしてしまうことを褒めて欲しい時もあります。
父親の病院への送り迎えは
今日は父親を病院に連れて行く日。
母親は「私が行くよ」とは言いません。
というか、「よろしく」と当たり前のように言うのです。
氷を割ることは、ちょっと頑張ればできることですが、病院は数時間掛かるので他の用事を上手く片付けないと時間が作れません。
でもそれはできないと最初から諦めてしまうので、全く慌てることもなく「よろしく」なのです。
負担にすれば、製氷器を使って氷を作れば数分の作業で、病院は数時間。
でも母親にすれば、1個は1個。
父親に対する世話は同じだと思っているのです。
簡単なことは簡単に済ませて、大変なことはできるだけ簡単になるように工夫することで在宅介護は回ります。
しかし、今の両親はその大変さの違いを理解できないので、氷を割りながら「大丈夫よ」などと言ったりするのです。
何に対してなのかとも思いますが、「私はできている」という自尊心を満たすことが先にあって、何を優先するとみんなが楽に支え合えるのかは考えられません。
空き箱になった段ボールを廊下に放置し、「なんでそのままなの?」と言っても「忙しくて」と返すだけ。
その時は忙しくてできなくても今はどうなの?ということですが、それが難しくなっています。
このままだと明日も自分で氷を作るでしょうし、冷凍庫を掃除して整理して場所まで作ったのに、一回も使われない可能性も否定できません。
結局、両親はもう自己流しか続けられないので、やったつもりのあとは尻拭いするしかありません。
できないというから方法を考えて用意したのに、感謝されることもなく、製氷器がそのうち邪魔だと言い出すのかと思ったら、とても残念です。