「介護」を考えた時に
「介護」を考えた時に、「当たり前」の違いにも意識が向きます。
例えば「料理」に関して、「当たり前」と思う食事は人によってかなりバラツキがあります。
朝の食事なら簡単に済ませてしまうこともできますし、朝だからこそしっかりと栄養のバランスが整った食事という考えもあって、どれが正解ということではなく、どう生きるのかの答えになるでしょう。
例えば、訪問介護で食事の代行を行うと、自己負担額は1回30分程度で200円も掛からないでしょう。
しかし、それは1割負担という話で、介護施設の儲けとしては2000円になります。
つまり、そもそも理想とする食事スタイルがあっても、それを実現させる手段を持っていなければ、理想とは異なる食事をするしか有りません。
「当たり前」は人それぞれ異なるのですが、実現するには知識や経験、資金などが揃っていないと「前提」もないのです。
こみちの家の現状
正直なところ、妻は仕事をしながらも両親にとても親切です。
期待以上のことを「当たり前」にしてくれます。
今朝の食事をこみちが作り、それを食べた妻がもう少し「塩気を足しても良かったかも」と教えてくれました。
その時にこみちはアドバイスもらい有難いと感じた一方で、「当たり前」とは何かも考えました。
確かに少し塩気の足りないことは気づいていました。
しかし、「濃い目になるならまだ薄目の方がいい」という気持ちが根底にあって、限られた時間の中ではどうしても「薄目」逃げてしまうのも事実です。
それに、段々と両親も自分たちのことだけをしているので、料理を手伝うこともなければ、洗い物をしてくれる訳でもありません。
テーブルに料理が並んでいて、それを食べるということが当たり前になっています。
例えば、訪問介護サービスなら、30分で自己負担は200円だとすると、自分たちの食器を洗うかどうかによって、負担金が変わります。
ここまではお願いしよう。ここから自分たちで工夫しようという考えは、究極の意味では資金との相談です。
こみちや妻のプライベートを削り、本来ならできたはずの課題や余暇を割いて、両親が求める「当たり前」に合わせていると、「家族」ではなく「両親」と「当たり前を提供する人」になってしまいます。
昨日、母親から父親の使っている入れ歯を新調したいと相談がありました。
こみちと妻で両親との共同生活で掛かる大きな負担額を月々少しずつ貯めています。
その貯金があることを母親は知っているのですが、「相談」した理由は「負担して欲しい」ということなのです。
「当たり前」をどこに置くのかは世帯によっても違いますし、例えば進学したくてもできない、させられない家庭だってたくさんあるはずです。
少し無理をして学費捻出している家庭なら、子どもたちだって学ぶことが「当たり前」ではないことを理解するでしょう。
何でも我慢すればいいということではなく、どこまでが「当たり前」で、どこからは「特別」なのかを理解するのは、中学生くらいになると知っていても無駄ではないと思います。
今の時代は多様性が認められるので、一流大学に進むことが最善策なのかは分かりません。
しかし、勉強さえすれば、試験にさえ合格すれば、未来が切り開かれる可能性が高いなら、「なぜ勉強するのか?」という疑問にも答えが見つかるでしょう。
ところが、こみち家の場合、「当たり前」が統一されていなくて、こみちが数千円の出費を節約しているのに、数万円、数十万円の出費を当たり前に口にする母親には驚きます。
しかもそれを知っても、知らない顔で黙りする父親の姿勢にも驚きます。
やりくりしてもどうにもならないことは無理ですが、工夫して対応できるならそれをみんなで考えるのは家族としてありでしょう。
それは、今当たり前にしていることをしばらく我慢して、だから新たに何か別のことを始めるというのならこみちだって納得もできますし、応援もしたいです。
ところが、普段は忠告も無視して、自分たちは自分たちというスタンスながら、手に負えないことが起こると「相談」という形で「けつふき」を求めてきます。
そんな母親に対しては、面の皮が厚いと思いますし、父親に対してはズルいタイプだと思います。
最近、「もう年だから」と言って責任逃れをしますが、5年、10年、それ以上前からゆくゆくは大変になるから今のうちに考えて欲しいと言い続けて来たのに、それを全部無視しての「今」なのです。
加えて、母親は少しずつ認知機能の低下が見られ、父親ももうすぐ「介護」が始まります。
もう話し合っても、それで役割分担できる訳ではなく、あるのは「当たり前」に対する理解を改めることでしょう。
できるだけ負担の少ない介護にするためにも、今のままの暮らしはとても維持できないことを両親に理解してもらう必要があります。
負担を軽くしても、その分だけ母親は余計なことに時間も労力も使います。
「して欲しいのはそれじゃないのに…」
でも、そもそも「当たり前」の理解が共有化できていないと、行うべきことを残して、どうでもいいことをしてしまうのは無理もありません。
そして、「行うべきこと」である課題は、「当たり前」のこととしてこみちや妻が負担して行うしかありません。
「介護」というと「オムツ交換」のような行為を想像するかもしれませんが、生活に関わる全てのことの一部、または全部で掛かることを言います。
働いてくれなければ、稼いだお金を出すしかありませんし、片付けられないなら掃除をして、大きな荷物は大型ゴミとして手続きもしなければいけません。
何より、それら全てが「当たり前」になるので、両親は介護されているという気持ちは薄ら感じても、結局は何も行動に移せないので、「当たり前」として受け止めるしかありません。
「申し訳ないけど、もうできないよ」
「当たり前」が大きくなり、支えることができなくなると、家庭での介護は破綻します。