介護施設に入っている叔母
長く一人暮らしを続けて来た叔母も、加齢による認知機能の低下が見られ、介護施設に入ることになったのも昔。
こみちたち夫婦は、動けない、動かない父親と母親に代わって、仕事の休みの日や有給をフルに使って施設先の手続きやお世話になっていた地域包括支援センターの担当者とも相談して来ました。
当時、こみちは介護士として働いていて、かなりストレスも蓄積されていた状態。
そこに来て休みという休みが全て潰れ、しかも両親は特に何も行動せずに過ごしていたことで、ストレスが限界になり気づいた時にはこみち自身が完全に無気力になってしまいました。
そこまで行き着いても、両親は生活スタイルを変える必要性に気づいてくれず、どこか子どもが犠牲になることを当たり前のような雰囲気さえ出して来ます。
その後、こみちは妻も支えもあって段々と回復できたのですが、今でもあまりストレスが強い状況に耐えられないという症状は治りません。
叔母もいい歳と言えばいい歳なので、これから手術が必要と告知された時に、必ずしも選択肢が決まっているとは限らないのですが、以前からいろいろ父親がお世話になっていただけに、叔母に対して何もしないということに悔いがないとは思えません。
こみちの一存だけで決定できることでもなく、少し悲しい気持ちもありながら何もできない現状が苦しいです。
これまで生きて来て、物事が決定していく流れがあると気づいて、そのタイミングを外してしまうと変化させることがとても難しくなることも知っています。
だからこそ、変えられるタイミングに気づきながら、みすみすその時に何もしないことに耐えられないんです。
逆にこみちがそう行動するのは、「フリ」をしたい時で、「やろうとしたけど遅かった」というパターンです。
父親も母親も口だけは出ます。
立派なことを言うんです。
でも、行動するのかというと、「そのタイミングはテンポアップしないと!」という時にももたもたするので、結局はタイミングを失って両親だけでは何も決まりません。
極端な話をすると、仮に叔母に大きな病気が見つかり、手術が必要だとなったとして、介護施設で暮らすようになった時に「長生きする」という意味にそれぞれが真摯に向き合う必要があります。
「順番だからね」「自然のままに」
どれが正解というでもなく、これからの生き方を自分がどう考えるのかという機会だからです。
両親を見ていると、叔母に対して少し残念に感じるのです。
そもそも誰もが同じように状況を理解し、結論まで思考を巡らせられるとは思いません。
「yes」「no」だけしか分からない人もいるでしょう。
それは仕方ないことなのですが、「長いしてもなぁ〜」と口にした父親に対して、やはり介護している立場のこみちからは「何を言っているんだ?」となるのです。
かなりのことを家族に支えてもらい、最小限のことだけをして不自由なく生きている父親が、今の生活を批評するのはちょっと違うからです。
叔母との同居を考えるという状況になった時も、それぞれの生活を考えてというよりも「面倒になる」という自身の利益を考えて結論を出してしまう姿に、やはり今でも引きずる思いは拭えません。
大人になったいい歳の人間が、同じような大人と暮らすのはとても大変です。
今、妻はそれに耐えてくれ、両親との同居を不満も言わずに続けてくれています。
父親がそうしたように、妻が同居を拒否していたら、今でも両親だけで暮らしているでしょうし、今の母親の認知低下を考えても両親のどちらかが既に介護施設に入っていても不思議ではありません。
家事がほとんどできない父親が、一人で空腹を満たすことはできても、今のようなテレビ三昧にはならないでしょう。
洗濯物が床に散乱し、その中から着れそうな服を探す。
今の状況を見る限り、父親の場合はそうなるのは見えています。
だからこそ、叔母の容態という話が聞こえた時に、なんであんなにも何も変わらずにいられるのかが分かりません。
行き当たりばったりの生き方しかできないというのもそうなのですが、そんな大人を相手に介護させている現実に、少しは目を向けて欲しいとも思います。