「見当識」が失われたら「介護」はどうなるのか?

 「見当識」とは何か?

簡単に言えば、その場の状況を見て、それに応じた行動をすることでしょう。

高齢者になると、この「見当識」が低下するのですが、言い方を変えれば「決まった行動だけなら」比較的年齢を重ねても続けられます。

「見当識」が衰えて来ると

高齢者の立場で話すなら、以前よりも何かを始めて終わるまでの時間が長くなったと感じたりします。

その原因として、行動が一本線になりやすく、優先順位や効率を考えた組み合わせをイメージできなくなり、前から順番に行ってしまいます。

一方で、そんな高齢者と同居し、介護する家族の立場になると、「やりっぱなし」になったり、お願いしていた些細なことでもできていなかったりします。

「やりっぱなし」に見えるのは、「これくらいでいいだろう」という判断が不適切で、例えば洗濯ものを畳むという作業で、畳んだままその辺に放置してしまうということが起こります。

高齢者にすれば「キチンと畳んだ」と思うのですが、家族から見ると「やりっぱなし」に見えるのです。

ただし、できなくなったことがあっても、高齢者が見当識を低下させている場合、何をどこまでどの手順でという臨機応変な判断ができなくなるので、結果的に「頑張っている」という自負まで失っている訳ではありません。

つまり、卑屈に消極的になるかどうかは個人の性格で、逆に「できていない」ということさえ気づかないことも人によっては起こります。

なので、やりっぱなしの状況を見つけて片付けたとしても、高齢者の気持ちとしては「ありがとう」ではなく、「……」なのです。

「ありがとう」と心から言えるのは、できていない状況を俯瞰して見ることができたからで、見当識が低下し、その状況を正しく理解できないようになると「なんで?」というような感覚が増します。

約束した時間よりも早く出掛けてしまうというのも、典型的な見当識の低下でしょう。

遅れてはいけないから早く行動するというのは悪い習慣ではありません。

しかし、それは途中で時間を調整し、約束した場所を訪れるのにあまりにも早すぎると相手は迷惑に感じます。

相手にも他に予定があって、約束した時間に合わせて行動しているのに、極端に異なる時間に来られてしまうと、何だか自分が遅れて待たせてしまったように感じ、急かせれてしまうからです。

見当識の低下から極端に早い時間に行動してしまうと、それでも社会は寛大に応じてくれたりします。

なぜなら「待てなくなる」という高齢者特有の行動を知っていたりするからです。

なので家族が「早すぎる!」と注意しても、「大丈夫!」と高齢者は答えるのです。

「大丈夫」なのではなく、見当識の低下が理由だとしたら、説明してもまた同じ時刻に来てしまうので、それこそどこで帳尻を合わせるのかというと高齢者のまわりなのです。

こみちもやっと理解できた!

これまで、両親にお願いしたことが、一つとして守ってもらえないことがストレスでした。

お風呂から出たら、換気扇を回してという些細なことでも、例えば「窓を開けた」という独自の解釈をして「換気扇」は回してくれません。

「洗濯機が終わったら、中身を出して欲しい」と頼んでも、「別の用事をしていた」と返って来ます。

以前なら「ずっと付きっきりだった訳じゃないでしょ!? 出せたよね?」となるのですが、そこも見当識の低下が起こると、自分が決めた順番通りにしか作業できないので、終わるまでいつになるのか分かりません。

「別の用事をしていた」という返しも、意味が分からないと思いますが、つまりは順番通り作業しているので、洗濯ものを取り出すまで行き着いていないということなのです。

洗濯機を使い始めて、最終的に次に使えるまで、3時間後というのも珍しくありません。

「ええ、今から?」と聞き返してしまうタイミングだったりします。

高齢者との同居でストレスが溜まってしまうのは、「今から始めよう!」と思い立っても使えなかったり、言い訳のような言葉しか返って来ないからです。

言い換えると、そんな高齢者の両親の家事も全て引き取ってしまえば、作業は格段に早くできますが、一方では両親の生き甲斐さえも奪いかねません。

「それ触らないで!」「向こうに行ってて」

そんな言葉になってしまうと、言われてしまう理由が「鈍いから」としか理解できないと、邪魔にされていると思ってしまいます。

丸ごと引き取っても関係性はギスギスしますし、ある程度任せても、想像以上に時間が掛かったり、自分が使いたい時にも使えないことが頻繁に起こりやはりストレスは溜まります。