性格の不一致は克服できることなのか?

 男女関係から親子関係まで

みなさんは、食事で汚れた食器をテーブル、もしくはシンクにどれだけ放置しても気にならないだろうか。

こみちは基本的にズボラな性格なので、「放置する」ことに慣れていない訳ではない。

でも、妻との生活で身についたこともあって、先に歯磨きするくらいなら放置できても、別の何かをしてからというのは考えられない。

これは、洗って後の食器をどのタイミングで食器棚に戻すのかにも通じていて、「放置する」こともできるけれど、できるなら洗った流れて食洗機は空にしておきたい。

しかし、入院で父親が家を空けて、母親だけになると二人のどちらかが何をしていたのかがよく分かる。

母親は食器を洗うけれど、この1週間で食器棚にしまったことが一度もない。

おまけに、食洗機の中に洗い終えた自身の水筒がしばらく残っている。

その間にも何度か食器を洗っていて、その度に水筒は濡れたり乾いたりを繰り返している。

「洗う」ことで、いつでも綺麗な状況になると信じるなら、何日でも食洗機に放置しても問題にはならない。

でも放置したままで、何か衛生面で問題はないのか、こみちには判断できない。

ただ、洗って綺麗と言っても、数日間ずっと食洗機の中に放置して、それに水を入れて飲み水として使うのは個人的には抵抗を感じる。

それこそ感覚の違いだが、性格の不一致とも言えるだろう。

無意識のマーキング

マーキングとは「印」をつける行為だが、野生動物は自身のエリアを誇示するためにマーキングで示したりする。

端的にズボラと言ってしまえばそうかもしれないが、母親には昔からマーキングの習性があって、私物を家の目立つところに置いたままにする。

キッチンに使ったコップ。

蓋つきの可燃ごみ入れにバナナの房。

階段の脇にカバン。

玄関に帽子と水筒。

ハガキくらいのスペースがあると、そこに何か私物を置いてしまうのだ。

しかも30分や1時間ではなく、半日から数日、そして自身にとっての置き場になることもある。

玄関では、一足だけ靴が下駄箱に入れられずに置いてある母親の靴がある。

「すぐに使うから」というつもりで、一度も片付けられたことがない。

一足は当たり前になり、二足目が出た時も「すぐに履くから」と言い訳をする。

一足が許されると二足、さらに三足目と増えてしまう。

結果、足の置き場がなくなるまで増えて行き、「もうそろそろ片付けて欲しい」という繰り返しだった。

実際、ダンボール箱が玄関に置かれるようになり、もらった野菜の置き場になったこともある。

最初は一箱で、気づけば二段になり、さらに三箱と増えていく。

みかねて「邪魔だ」というと、「もう少しだけだから」と言い訳し、別の場所にダンボールごと移動される。

それが廊下だったりして、「ここはもっとダメだろう」と、他のスペースを潰して野菜置き場を新たに作り直すことになる。

こんな風にしてあんな風にしてと、自分で何でもできるならいいけれど、ポンと放置して気にしない性格の母親だから、「また置きっぱなし!」というストレスが毎回続いている。

口癖で「忙しい。忙しい」と繰り返し、何か言われないように予防線を張って、自分の好きなようにマーキングをしてしまう。

退院に向けての準備は…

今、父親の入院で、保険会社に書類を提出する準備をしているけれど、母親は電話連絡さえ「明日するから」と先送りしてしまう。

別の保険会社の時には、受付時間が終わってしまい、しかも週末と重なって数日連絡が遅れてしまったことがあった。

そんな二度手間三度手間は珍しくなく、期限ギリギリで一人では間に合わなくなって家族で手分けしなければいけないことがあまりにも多い。

自立支援が介護の基本というけれど、母親のペースに合わせていたら何もかも進まないまま、最悪のタイミングでその負担が回って来る。

しかも、お願いするのが苦手で、謝るのも嫌いで、「ありがとう」とは絶対に言ってくれない。

手順よくすれば何でも無いことを、やたら一生懸命に背負って、でもできない母親を見ていると、首を傾げたくもなるし、好きにすればいいと放置したくもなる。

今、入院している父親から家電があった。

それを知った母親は、「病院に行かなきゃ!」とそのことで頭がいっぱいになっている。

だから、保険会社の連絡も、放置された私物もすぐには片付けられないと騒ぎだす。

「急いでいるから!」

慌てて家を飛び出して、父親が待つ病院へと出掛けてしまった。

週明けの月曜日に退院を予定しているから、入院費以外にも診断書や領収書などの用意が必要で、どの保険会社に何を提出するのか、できれば週末を迎える明日までにアクションを起こせればその後が楽になる。

何も確認できないまま、また病院に行って父親の様子を見て来ても、来週からいろんな意味で病院にバラバラのタイミングでお願いしなければいけないことが出て来るのだろう。

一つの用事だけで動いていたら、時間がなくなって忙しくなってしまうのは当然の事。

でもやり方を変えられなくて、レンポンスが悪くなっているのに頭を使って行動しないから、行き当たりばったり行動が目につく。

ある意味で、在宅介護とはストレスとの戦いで、自分なら終わっていることが、いつまでの処理させずに残っているようなもの。

ストレスに耐えきれなくなって自分が終わりにさせたと焦っても、相手は理解してくれない。

出掛けた母親も、大きなため息を何度も繰り返していた。

こみちが自分の時間を割いているとは思ってくれなくて、動かなければいけない役まわりを母親は押し付けられたくらいに思っている。