毎日病院に行きたがる母親の心理

それが愛なのか?

今日も理由を見つけて父親がいる病院に出掛けた母親。

実は入院してから、母親は少し強いストレスで様子が変だった。

それもあって、入院が始まってからは多くの家事をこみちと妻が担当している。

時間的に余裕が出たこともあって、母親は父親からの連絡がある度に病院へと通ってしまう。

入院中で暇もあり、テレビを観ていた父親にとっては電話で母親を呼び出してしまうのだ。

母親の精神が不安な頃に、父親には「お母さんもキツいから些細なことで連絡しなくてもいい」と釘を刺しておいた。

でも父親はそんな我慢ができるはずもなく、こっそりと連絡しては母親も病院へと行くのだ。

助けられているという実情

例えば、母親が今までの家事を全て行い、しかも入院に関わることもできていたのならどんな方法でも文句はなかった。

でも、役所への手続きを始め、母親が時間的に余裕がある時でも、「もうダメ」と嘆いているから渋々でも対応を代わったり情報を整理したりして来た。

そしてその苦しい期間は、母親もこちらの話を聞いていたが、段々とそんなこともすっかり忘れてしまう。

それが「老い」と言ってしまえば、そこまで含めて母親のサポートをしなければいけないのだろう。

しかし、「助けている」という実情を脳内で勝手に変換し、「子は親を助けて当たり前」という考えで終わって欲しくはない。

実は父親が入院し、父親が家にいた時にしてくれていたことがいろいろと分かって来た。

その一つが、自分が使った食器を洗って棚にしまうということ。

母親は洗うことはしても、棚に戻したりしたことがない。

部屋の掃除機もそうだし、父親が入院したことで父親が担っていたことを母親がするという認識がないのだ。

人に感謝するということが、互いに共有できないのは、やっぱり辛いものだし、それはある意味で「タイプ」が違うということだと理解するしかない。

こみちの場合だって、他の誰かからすれば「残念な人」と思われてしまったことがあっただろう。

それはこみち自身は気づけなかったことだし、本音を言えば当時は正しいと思い込んで選んだ選択肢もあったと思う。

それでは行き詰まるからと手を伸ばしてくれただろうはずなのに…。

幸福は考え方や心の持ちようだと思う。

でも、不幸になる人は、どこかで不幸になる選択肢を自分から選んでしまっているところもあるように思う。

一回目の失敗は仕方がないとしても、二度目三度目は、「このパターンはダメだ」と気づいていたはずだから。

でもそれが「自分らしさ」と思い込んで、変えないことに変な誇りを持ってしまう。

きっと母親は、入院先から帰宅して、「ほら、何も変わっていないでしょ!?」と自身の選択肢が不幸に近づいているとは思わないだろう。

でも、好き勝手なことをして、周り人間がどんどん離れてしまった後、最後の最後の瞬間に全否定されたらどうだろうか。

「そんな風に生きられなかったんでしょう!?」と。

あははと笑い飛ばせればいいけれど、妙に心に刺さってしまうと今までの人生が急に薄っぺらくなってしまう。