「楽しく生きたい」というけれど!?
「三度の食事があって、好きなときに寝られる暮らし」が当たり前ではないということ。
入院していた父親が家に戻って来て、急に包丁を研いでくれました。
父親にすれば自分の存在感を示す時であり、そんな姿に母親は父親を見直すのです。
でもちょっと待って欲しいのは、「できること」は誰でもできるんです。
問題は、ちょっと面倒だったり大変なことをサラッと片付けなければいけないのが生きること。
例えば、生活費を稼ぐには、週5日、朝から夕方まで仕事をしてこそ。
帰宅して寝るまでの数時間に食事の準備から食事、入浴とこなすことがいっぱいあって、その残りが余暇になります。
仕事のために勉強するなら、さらに余暇が短くなってしまいます。
つまり、現役世代の暮らしはそんな毎日。
でも両親の生活は用意された料理で食事をして、使った食器を1時間近く掛かって洗うというペース。
随分と時間が経ってからキッチンに降りてみると、まだ食器を洗い終えていなくて、もう少しで終わるという母親。
食事を済ませて1時間以上が経過しても、それを終わらせられない母親と、手伝わない父親。
手伝ってと言えない母親と手伝おうとは思わない父親。
入院しても結局は何も代わってはいません。
見かねて妻が母親の代わりにキッチンで作業していますが、聞こえて来るのは母親の特徴的な笑い声。
妻が「まだ若いんで!」と言って、「若いんだって」と父親に伝えて、なぜかリビングで妙に盛り上がっています。
違うだろうと誰か言わないのでしょうか。
「若い」と言った妻の言葉は、後片づけが終わらない母親や手伝わない父親に向けられたもの。
父親が家に戻って来て、食事の用意をされるのが当たり前で、しかも後片づけも自分の担当ではないということになれば、かなりの負担増です。
なぜなら母親が片付けをサッサとできないから。
病院のリハビリに刺激されて、毎日散歩すると言い出した父親。
「今頃?」
何度言っても聞く耳を持たず、歩けなくなってしまったのは、一日中テレビを観て過ごしたから。
もうパターンだけど、「散歩をする」ということで、自分の役目は決まったと勝手に思い、他の家事は自分の担当ではないと知らんぷりする。
「自主的に何かする」という意識が両親には全くなくて、なんだかんだで妻が世話をしてくれて助かります。
受け身なスタンスは一切変わっていないので、ルールを早めにこちらで決めておかないと、また自主性という自由だけを訴え始めてしまいそうです。