やっぱり母親を愛せない

 こみちにとって愛情とは?

最近、つくづく母親を愛せないと感じています。

父親に関しても似たような感情ですが、ふと妻が同じように振る舞った時に、母親のように愛せなくなるのか、それとも愛おしく思えるか気になりました。

たまたまここを訪れた方は、こみちの恋愛に興味などないと思いますが、自分で言うにも変ですが意外とストライドゾーンが狭くて、「いい人だなぁ」と思う範囲と好きになれる範囲の差が激しいように思います。

美人を見ればキレイな人だなぁと思いますが、じゃあ好きになれるのかというとそうではなくて、日常生活でも苦手に感じてしまうと外見などは関係なく無意識に避けてしまうことも少なくありません。

正式な診断結果ではありませんが、多分、こみちはエンパスと呼ばれる共感性が高いタイプの人間です。

共感性が高いとどんなことが起こるのか紹介すると、テレビでサッカーの試合を見ていて、ボールが画面に向かって飛んで来たら、思わず本当にぶつかると錯覚し後ろに倒れてしまうほど反応してしまいます。

ボクシングの試合では、テレビを観ているだけなのに無意識にパンチに反応し、体がピクンと動いてしまうというのも同じような現象です。

なので、刺激が強い場面に長く身を置いていると、その場にある雰囲気を自然に吸収して辛い気持ちになってしまうので、プライベートなゾーンに入られると苦しくなります。

つまりそれはどんなに美人な人でも、ちょっとしたタイミングで性格的に合わないと感じてしまうと、こみちは避けてしまうのです。

母親を見て、もちろん異性を意識してではありませんが、単純に愛せないなぁと思ってしまいます。

多分、同じ年代でまだ若い頃に他人として出会っていても恋愛関係にはならないですし、交友関係も続かないと思います。

単純に言えば、相手を信頼できるかがポイントで、嫌だなと思ってしまうとその感情はいろんなシチュエーションでも感じてしまいます。

笑い方や話し方、仕草でも、嫌だなぁと思う部分が目に入り、一緒に同じ空間にいると段々と気持ちが沈んでしまうのです。

その根底になった動機やキッカケが母親に対しては明確にあって、こみちもこんな風にはなりたくなくて、家族という思いから何度か忠告をしていた時期もありました。

でも母親はその感覚を理解しないのか、意味が分からないのか、つまりはこみちとは合わない人だったようで、今は一緒に生きることが苦痛です。

母親がいない空間で母親のことをいろいろと考えたら優しい気持ちになるのに、実際に存在を目の前にすると、こみちの気持ち以上に母親から感じ取る雰囲気の方が強すぎて、逃げ出したい気持ちになります。

ズルさへのこだわり

こみちにとって、ズルさは特に相手を評価するポイントになっています。

共感性の高さは相手の気持ちに寄り添うときは役立つますが、相手の気持ちに寄り添い過ぎてはいけないときには「毒」にもなります。

ズルさは、完全に隠蔽できるものではなく、ちょっとした言動や前段階の行為に現れたりします。

こみちは、異変に気づきたくなくても、ふと「ん?」と思う瞬間があって、そこから行動パターンを連想し、「そうだったのか?」と決めつけてしまう癖が身につけています。

今は、「ん?」と思わないように、意図的に視野を狭め、気づいて考えないようにすることで余計な感情を抱かないようにしています。

そうしないと、苦しくなりますし、落ち着きも保てません。

どうしても解消できないときは、ランニングなどをして汗を流し、気持ちを切り替えるようにしています。

母親のズルさは、癖が悪いと感じます。

母親にはパターンがあって、「理想形」が存在し、まだ若い頃は不完全でもそれを持ち前の気力で目指していたのでしょう。

誰しもに言えますが、「将来、こんな人になりたい」と言うような夢はあって、でも到達できる人の方が少ないはずです。

つまり、母親が今になっても「理想形」を崩そうとしないのは、できない部分を家族に負担させているというです。

どっちでもいいようなことでも、強いこだわりを持って貫けないのに始めてしまう。

洗面所の電気をつけたまま、キッチンで何か始めて、玄関を掃いているということを平気でしてしまうのも、「理想形」を達成させたいからでしょう。

朝、6時過ぎに起きて来て、化粧を終えて出掛け用意が完成するまで、午前9時でも厳しいくらいです。

その間に食事や洗濯などもしているからですが、1つずつ片付けるのではなく、同時に進めて行くので、結果的に洗面所がいつまでも使わないということが起こります。

母親にすれば「勝手に割り込んでいいのに」という気持ちなのですが、こみちすれば乱雑に散らかっている洗面所でコソコソと歯磨きしたいとは思いません。

かと言って母親のペースに合わせていると、朝食の歯磨きが10時過ぎになってしまうでしょう。

父親が入院したキッカケで、両親の未解決になっている事務手続きを妻にも手伝ってもらって進めて来ました。

必要であれば、何も理解していない父親に部分的な説明をして、銀行や役所に連れて行きます。

「おまかせね!」

送り出す母親は、解決することが嬉しいのか、そんな言葉で送り出します。

「ありがとうね」ならまだ分かりますが、「おまかせ」という言葉にはちょっと疑問を感じます。

こみちにとってはそれが母親のズルさで、「ありがとう」と認めるのはプライドがあって、「任せたわ」という謎の気持ちがあるようです。

その癖、解決したことのわずかなミスや疑問があると、「コレはどうしたの?」と被害者のように責めてくるので、「じゃあ、やってよ!」と言い返すと、「もう年だから」を最後の言葉に言い訳を始めるのも最近のパターンです。

父親以上に母親の物忘れや流れに合っていない行動が増えていて、このまま認知症にでもなってしまうと、常に行動に注意しなければいけないタイプになってしまうように思います。

全く家族用には料理をしなくなり、でも主婦としてのプライドは残っていて、冷蔵庫のドアを何度も確認しているのですが、ここ最近はこみちも在庫を気にするようになり、期限切れは黙って廃棄したりします。

でも母親としては、誰かがカバーしているという意識は薄く、自分のこだわりを貫いていることに変わりありません。

「ゴミ袋、出しておいたから」

わざわざ母親が言って来て、ゴミ箱を見るとゴミ袋がそのまま乗せてあって、「セットしてくれたんじゃないんだ」というようなことがいろんな所で起こるのです。

面倒だという気持ちと、用意したから楽になっているとが共存し、こみちにすれば中途半端と思う行動も、母親にとっては「主婦」としてのプライドが満たしているのでしょう。

今もキッチンでは、冷蔵庫の扉を何度も何度も開け閉めしていますが、何かしている訳ではなく、ある意味で思いついた物を出して、また別の何かを出して、やっぱり片付けてということを繰り返しています。

その意味では、まだ見当識が残っている父親の方が癖は少なくて、朝の忙しい時間に起きて来ないで、7時過ぎまでは自分の部屋で何かしているようです。

「起きているなら、顔でも洗ったら?」

そんな言葉を母親はいい、父親がもう少ししたらと答えているのがなんだか二人の意識の違いを物語っているようです。