不幸はどこからやって来るのでしょうか?
中高年と言っても、こみち自身が段々と「高」になる年齢を迎えて、人生についてぼんやりと感じることがあります。
それは幸不幸のことですが、才能豊かな人は羨ましい存在ですが、こみちのような凡人には何か1つでいいので「人並み」にできることを見つけて、それを生き甲斐に生きられたら幸せではないかと思うのです。
できれば、それが仕事にもなり、対価を得る糧になれば、その「1つ」をさらに無くてはならないものとして大切にできる気がします。
こみちの場合、それが「絵」だと思っていて、上手いか下手かは別にして、絵を描くことで満たされる満足感があります。
もう一つ挙げるなら、趣味で始めた「ランニング」でしょうか。
判断能力も高く、頭も良く、しかもスタミナがあってという恵まれた人には、たくさんの可能性がのある未来が待っているでしょう。
一方で、あまり取り柄と呼べるものがなく、人と同じことをしても上手く行かないで悩んでいる人が、あるキッカケで「1つ」と呼べるものに出会い、他にできないからこそ、細々でもそれを続けて生きているということもあります。
学生時代の評価では、いろんな可能性のある人は優秀で、目立った取り柄のない学生は凡人です。
でも30代、40代を迎える頃になると、その差は思ったほど違っていませんし、何なら才能豊かと期待されていた人が、会社を退職してやり甲斐を見つけられないということも珍しい話ではありません。
「能力」としてできることを学生時代は評価されるのですが、長く生きていると「続ける力」が人生を決めると思うのです。
頭が良くていろんな資格もたくさん持っている人でも、ヤル気がなければ結局は行動できません。
それが、「これしか無い」と自分でも思って、続けている人はどこか羨ましく生き生きして見えたりします。
母親の手伝いをする父親
最近、父親が母親の手伝いをするようになりました。
キッカケは分かりませんが、父親は段々とヤル気を取り戻しているようです。
ただ、父親の場合、「生き甲斐」と呼べるものがテレビしかないようで、しかも番組の感想や発展のキッカケにしているのではなく、提供される放送を黙って観ているように思います。
例えば、外国のドラマが楽しいと感じるなら、これを機に英会話の勉強をしてみるという展開も考えられます。
それが上手い下手ではない、自分にとっての「1つ」になり得ます。
そして、それが他人にも周知されていれば、「〇〇ってどうなんですか?」と会話のキッカケにも使えます。
こみちより上の世代なら、「ゴルフ」「自転車」「家庭菜園」「バイク」「DIY」など、知っている人は誰とでも楽しく会話が弾んでいるように見えます。
それ以外にも「旅行」などは夫婦でも楽しめて、日常的な会話だけでなく、今度はどこに行こうという話も自然にできます。
父親の場合、「能力」としてできることも「やり甲斐」にはなっていないので、話題として「どうなの?」と聞くほどではなく、楽しい会話にはなりません。
高齢者になる年代を迎えて全ての面で「受け身」では、相手にしたいとは思えないでしょうし、わざわざ「どうですか?」と気にかけてくれる人には感謝しかありません。