在宅介護で家族の負担を減らすために

 見当識の低下

見当識とは、日常生活の中で他人や複数のことを進める時に、タイミングや状況を察知する能力です。

この能力が低下すると、行為そのものは正しいのに、行うタイミングが状況に合っていないというようなことが起こります。

高齢者(特にこみちの両親)になると、この見当識が下がり、目の前に準備をしてお願いしたことはできても、それが複数のことないしなったり、場面ごとに判断が必要になったりした時に、「思い込み」でやり通すことがあります。

例えば、今日のことで言えば、ダイニングテーブル使って父親が母親から頼まれた手作業をしています。

でもそれがお昼時で、食事の準備で使いたい時に「一度中断する」という判断ができません。

やり始めると、終わるまで一本調子で取り組んでしまう性格なので、過度に負担が掛かるほど頼んでしまうと気分が悪くなって体調を崩してしまうということも珍しくありません。

「折角だから…」という気持ちが強くなり過ぎて、自身の体調と相談しながら作業することができないので、一回で終わること任せられても、二度と三度に分けて約束の期日までに完成させるということは難しいのです。

つまり、手作業は苦でなくても、だからと言って内職のような仕事を請負うことはできません。

そこに家族の誰かが関わり、「このタイミングでここまで」というようなスケジュール管理をしなければいけないからです。

父親の想い

手作業をしている時の父親は、どこか得意気です。

きっと「自分はまだまだいろんなことができる」と思っているのでしょう。

それが精神衛生上、いい効果に繋がるのは悪いことではありませんが、父親の場合、だから「介護など必要ない」と思ってしまいます。

退院してからは自動車の運転を控えてもらっていますが、父親にすれば「運転は得意でもっと下手な人だって運転している」と思っているようです。

誰かと比べてという判断ではなく、他者巻き込んでしまう可能性を考えて、家族としては諦めて欲しいと思うのです。

思った以上に、退院後の父親はいい意味で以前と変わらないくらいできることがあります。

ただ、「できる」というのは、あくまでも「見当識」に照らしてではありません。

介護施設などで、利用者の方に洗濯物畳んでもらうような位置付けで、手作業を手伝ってもらっているに過ぎません。

結局のところ

父親も母親もこれまでお願いし続けて来たルールを守ることができていません。

特にここ数日は、できていたルールさえできなくなっています。

例えば、使った食器を自分たちで洗えないなら、「汚れた食器同士を重ねないで欲しい」と頼んでも、「広がり過ぎる」という判断で重ねてしまいます。

これと同じようなことがたくさんあって、自分で最後までできるならいいのですが、出来ずに途中で手伝って欲しいなら、「ルール」に従って欲しいと頼んでも、それが理解できないのです。

ダイニングテーブルテーブルを時間帯や周りの状況で使い方を判断するというのも同じですが、「同等」の立場で考えるとどうしてもタイミングが合わないことにストレスを感じてしまいますが、「介護」と考えて「できることをしてくれればいい」と思えば納得できます。

そこまでできるなら…。

そう思うことも多いのですが、途中になってしまうのは見当識が低下しているからで、それを「できていない」と指摘しても、父親も母親も何をどうすればいいのかが結局は分からないのでしょう。