「自由」と「責任」は「基本」と「好み」に似ている話

 自由と責任

よく言われる話として、自由と責任は表裏の関係で、自由の望むなら責任も負わなければいけないということ。

自由とは選択できる範囲にあって、責任はその範囲を理解すること。

つまり、自由も無限に許されるものではなく、それは責任を負うことで初めて成立する。

基本と好み

基本とは、何かのベースになるもの。

好みは、自由にも似ているが、2択や3択の中から気分などで自由に選択できるもの。

つまり、基本を知らない人には、好みだけを聞いても意味がない。

もっともそれを見守る人がいて、責任を負うのであれば話は違う。

しかし、個人が個人として考えるなら、基本ができないのに、好みの話にはならない。

まずい料理

こみちには悩みがある。

それが、母親が作ってくれる晩御飯が好みに合わないのだ。

その解決策は、こみちが作ればいいのは分かっている。

でもそう話は簡単ではなく、母親にとってこの家でのポジションや役割を残していたいのだ。

こみちだって料理が好きでも上手くはない。

母親との違いがあるのは、基本を知っているかだろう。

母親の料理で決定的に基本ができていないのは、自分の作り方が受け入れられない時に家族の舌に合わせて作り直せないこと。

つまり、母親は上手くできる時もまずくなってしまう時も、母親自身もコントロールできていない。

たまたま作って上手に作れたらいいけれど、まずい時には何度も指摘しても変えることができない。

これは料理の話だけではなく、生活全般に言える。

特に家事の基本として整理整頓や使いぱなしにしないなど、基本が分かっていない。

今朝も洗面所の洗濯機を使っていて、洗面所にも洗いたい洗濯物が放置されている。

母親にすれば、次に洗う時の準備なのだが、それまでずっと洗面所に洗濯物が放置されたままになる。

別の話で、朝食を食べていると、食卓の周りでウロウロと動き回る。

見かねて朝食を早めに済ませて場所を空けても、実際に使うのはそれから1時間も後だったりする。

じゃあ、なんでそんなに急かして来るの?という話だが、母親は「自由に使える」ということを強く欲するところがある。

実際にはまだ使わないけれど、いつでも使えるということを求めるから、こちらが何か始めようとすると使用中になっていることが多い。

朝、6時30分からご飯を食べたこみちだが、8時を過ぎても両親はまだ食べていない。

そして食べて食器を洗ってと全て済む頃はもう9時を過ぎて10時近くになってしまう。

それまでキッチンはもちろん、洗面所も使用中になるので、先ずは基本を理解し、その中で自由を選択して欲しい。