「好き」「嫌い」の先にある「生理的」という感覚の話

「 好き」とは何だろう?

誰でも部屋に一人でいると、自分の周りにある環境をコントロールしやすいでしょう。

テレビをつけて、そこから流れる音量も心地よく変えれば快適です。

座っていてもいいし、寝転んでもいい。

なぜなら、今自分が心地よいと思うように変えることが許されています。

一方で、同じ部屋に誰かが居ると、その人が気心知れていても、全く見ず知らずの人でも、多少は気になる存在です。

一人でいるなら少しも躊躇わずにできたことも、一瞬は相手の存在を踏まえてしまうからです。

「テレビ、観てますか?」

一人なら何も言わずにリモコンで切ってしまうのに、一応声を掛けるというのもそこに誰かがいるからです。

小腹が空いて、何か食べたいと思っても、「食べますか?」と声を掛けるのは、そこに誰かいるからです。

全く見ず知らずの人であっても、バリバリと音を気にしないで食べることはできないでしょうし、無意識のうちに体が遠慮を覚えてます。

「好き」という感覚も他人に感じる感覚の一種です。

ただ他の感覚と違うのは、「好き」の場合には気持ちが自然に昂ります。

姿を見ただけ、声を聞いただけでもその心の動きがあって、きっと心拍数も勝手に上昇してしまうでしょう。

その意味では、「好きか?嫌いですか?」と問われて答える時よりも、自分でも抑えられない感情が起こり、ドキドキしてしまうという感覚こそが「好き」の正体ではないでしょうか。

一方で「生理的に…」という感覚は?

「生理的に好き」という言葉よりも、「生理的に嫌い」という言葉の方が使います。

なぜなら、「生理的に好き」は「好き」とかなり似ていて、「嫌い」と「生理的に嫌い」はかなり異なる感覚だからです。

単純に「嫌い」というのは、その場面に直面して起こる感情で、言い換えるとその場面にならなければ特に感覚が呼び起こされるものではありません。

しかしながら、「生理的に嫌い」という感情はその存在を直接的に感じなくても、話声や足音、ドアの開け閉めからでも感じ取れるほどです。

なぜなら、誰かと同じ部屋にいる時に無意識に感じとる感覚と同じで、「嫌い」と思う感情が割と早い段階で気づきます。

「嫌い」な相手なら、何かのキッカケで「嫌いではないかも」に変わるかもしれませんが、「生理的に嫌い」になってしまうと感覚が一気に遮断されるので、改善される可能性は極めて低くなります。

例えば一緒の部屋にいたら、存在を少しでも感じないようにしたいと思うので、イヤホンをして音楽を聴いて意識を逸らすなど、そもそもの存在感を否定してしまいます。

そこでもしも話掛けられるようなことが起きれば、ストレスレベルも高まるでしょう。

その時に、相手のことを思う余裕があれば、まだ「嫌い」に近い感覚で、完全に遮断された状態になってしまうともう話をしたかどうかということでは気持ちが変わる余地はありません。

なぜなら、その場から逃げ出したいと思う方が強く、相手を改めて観察する余裕もないからです。

ある意味で、そんな相手から遠ざかればいいだけで、もう修復しようと思う方が辛いでしょう。

そうすることで、少しでも自分が心地よく生きられるなら、「逃げる」という方法も積極的に使いべきです。

まだ「嫌い」という段階で、改善を試みることはおすすめですが、「生理的」まで感情が閉ざされてしまったなら、その人間関係には触れないことです。