父親が薬を飲めずにもたもたしている

 昨晩のこと

先に食事を済ませた父親が、いつものようにリビングのテレビの前を陣取り、海外ドラマを観入っています。

音量がどうしても大きくなりがちで、こみちたち夫婦で食事をしていても、その音声は会話を遮るくらい目障りです。

何度も言っても、「過去の習慣を変えることができない」のが老いだと思っています。

「できなくなってしまった」ということの多くには、その前兆があって、改善は難しくても症状の悪化を遅らせる方法ならあったりするものです。

こみち自身は、朝のランニングを始めて約10ヶ月が経過しました。

今朝も5キロ走って来たのですが、その時の外気温は「0度」。

手袋をしていないと、指先がかなり冷たくなります。

今日から走ろうと思った人が、そんな外の寒さを知ったら、走るのを躊躇うかもしれません。

もう少し日が昇って、暖かくなってからと考えるでしょう。

つまり、何かする時に、そうやってできる時もありますが、逆に冷たい朝でも走るのか、もしくは走らないかという選択肢になることもあります。

高齢になると、できない理由を探すことは簡単です。

つまり、「仕方ない」と言い出せば、どんな習慣も変えることができません。

特にそれが先の見えないような悪習だったとしても。

父親は夜に飲むべき薬が分からなくなったようです。

事前に薬をもらって来ると、朝昼晩と薬を分けで置いて、その時々に服用しているのですが、混ざってしまったのか、10分経っても薬をイジるばかりで飲めずにいます。

その原因の1つが、テレビ番組を観ているからです。

テレビがついていると、画面を見ることにハマって、何もしなくなってしまいます。

時に母親に「茶碗くらい洗って」と言われて、「テレビを観ているんだ!」と怒り出すくらいの勢いです。

「テレビを観ている」ではなく、「テレビが観たいから後でも良いか?」と聞ければまだ違います。

でも、段々と時間的な認識が「今」だけになって、するかしないかという判断になりがちです。

明日はコレとアレをしなければいけない。

そんな生き方が今の父親にはできません。

まして当日に別の用事が増えたりすると、元々の予定を飛ばしてしまうこともあります。

「何でしていないの?」

それが家族みんなに影響するようなことでも、ことの重大さで判断できないので、するかしないでしか考えられません。

年末だと言うのに、父親の背中を見ているとため息しかありません。

「できないということ」ではなく、「何も変わってくれない」ということに辛くなってしまいます。