人を嫌いになる時

 好きか嫌いか

人を好きになるのも、嫌いになるのも似ている。

「〇〇さんをどう思いますか?」という時に考えて出した「好き」も「嫌い」も実はまだ本当の気持ちではない。

この先に何かあって、その人を全く違う目で見られるかもしれないからだ。

でも、こみちがここで話す「嫌いになる時」というのは、もっと揺るがない感情を超えて生理的に起こった状況を指す。

もう一度やり直すとか、話し合いで解決するとか、それはみんな感情の範囲で解決できることに過ぎない。

できることなら、同じ空間に居たくないし、姿や声も聞きたくない。

それくらいになってしまうと、やり直すことそのものがキツくて辛くて、気持ちが壊れるほど負担でしかない。

人生が80年だとして、人はこの世の一部を体験することしかできない。

好きなことや意味のあることだけを巡ったとしても、その全部を経験することは難しい。

だからこそ、映画や小説などを通じて、自分が選ばなかった人生に身を置き換えて、擬似体験することで学ぶのだと思う。

なのに、もう気持ちが離れて、向き合うことが重くなったことに、何年も何十年も時間を費やす意味ってあるだろうか。

いきなり嫌いになったのではない。

段々と嫌いな気持ち芽生えて、でも解決もできなくて、あるタイミングで感情の域を超えて「嫌い」になってしまった。

自分で考えている時は、「次回は笑顔で挨拶してみよう!」なんて思ったりもした。

でも、直面したら顔がこわばっている。

その場から一刻も早く逃げたい一心だ。

もう少し訳ないと思うけれど、こみちには荷が重過ぎた。

そして、もう向き合うことは難しい。

もう心を壊したくはないし、あそこから立ち直るまでにどれだけたくさんの涙を流したのか分からない。

「そうだったの?」

逆に今さら、気づいた振りをされても、それまでにも何度もシグナルを出して、話し合いをして解決したいとも思って来た。

でもそれらが全て無駄になり、もう策も尽きてこみちは落胆し、最後は心も壊した。

あの行き場もなく大変だった時に何もしてくれず、もう今になって近づいて来られても、それはもう勘弁してくださいとしか言えない。

「その存在を意識から消す」ことでしか解決できなかったから、嫌いになった。