「やさしいあくま」を読んで

 もしも「優しさ」に「犠牲」が伴うとして

あなたは、あなたのために優しくしますか。

それとも、誰かのために優しくありたいですか。

優しい気持ち

段々と老いて来る親と暮らしていると、「諦め」に直面します。

昨夜、母親が時間を掛けて晩御飯を作っていました。

でも父親はテレビをずっと観て手伝いません。

「手伝って欲しい」

母親はずっとその言葉が言えません。

そして、父親も母親に「手伝おうか?」とは言いません。

母親の作った晩御飯を父親も食べます。

だったら、「手伝う」ではなく「代わろうか」でもいいはずです。

言われなくても、自分から言えばいいだけのことです。

しかし、長く二人を見ていて気付いたのは、「助けて欲しい」気持ちでも「助けてあげたい」気持ちでもなくて、そうやって二人はずっと生きて来たということです。

優しい気持ちってどこにでもあるのに、形は無限に変化します。

やさしいあくま

立場や役割を最初から理解できたら、人はもっと賢く生きられたかもしれません。

でも、変わりたい気持ちや憧れがあって、人は時に自分とは別の姿に変わりたいと願います。

変えられるものもあるけれど、絶対に変えられないこともあって、遠い未来ではなく「今」を大切にするべき時があります。

しかしながら、その代償もあって、「今」だけに生きれば未来はどうなるのか分かりません。

上手くいっているようでも、実は多くの優しさに支えられていたりするからです。

自分のことだけを大切にして生きることも一つですが、誰かのために役立つ生き方はしたくてもできなくなってしまいます。

手際が悪くなって時間が掛かる母親の手料理。

これまでずっと料理とは無縁だった父親。

二人がいまさら歩み寄ったとしても、思い描くような解決策にはもうなりません。

声を掛けて手伝うかどうかではないのです。

やさしいあくまは、誰かのために自己犠牲になる物語。

切なくもありますが、「優しさ」に生きることができました。

でも本当に悲しいのは、「やさしいあくま」のように優しくできるタイミングも失い、さらに「優しさ」自体を理解できなくなってしまう時が来ることです。