先に朝食を食べるこみちたち
朝食を作り終えて、一度時間まで自室に戻って来るこみち。
その間に起きて来た母親が、彼女のルーティンをしている。
その中の一つが、作った朝食の傍らに冷蔵庫の食品などを並べる習慣だ。
なぜそうしているのかというと、「質素な朝食」では見栄えが悪いから。
そして、昨日の残りものを食べさせたい思惑がある。
昨晩、母親の作ってくれた食事をこみちたちが食べている時、「味噌汁、ちょっと薄味になったみたい」と教えてくれる。
既に何度か味噌汁にも手をつけていたから、ほとんど味のないことに気づいていた。
「塩分は体に悪い」
それは汗をかいて水分を自発的に補給しているこみちで対してもそうで、母親は頑なに疑わない。
だから薄味なのではなく、体のためだと思ってそうしているし、そもそも味見をしないからどんな味になっているのかさえ分かっていない。
色のついたお湯を飲んでいるとは言い過ぎか。
最近、控えていたことの1つが、冷やご飯を冷蔵庫から出すことだった。
多分、冷やご飯はレンチンしても炊き立てとはちょっと違う。
でもこみちは率先し、多分、週の6日はそんな冷やご飯を食べている。
「食べられるから同じだよね?」母親はこみちにそう言う。
そして今朝、また冷やご飯をテーブルに置くようになった。
いろんな食品と一緒に。
妙に目ざとい所があって、特売品を安くなって来たりする母親だけど、時々、根本的な間違いをする。
500mmの醤油と300mmの醤油で値段を比較したり。
日が過ぎて鮮度を損なっていそうな精肉を安かったと買って来たりもする。しかもすぐに使わない。
価格しか見ない母親だから、炊き立てを食べるという小さな幸せが嬉しいのだろう。
しかも冷蔵庫から出せば、誰かが気づいて食べてくれるに違いない。
確かにこみちだって、炊き立ての方が美味しいと思っているけれど、皆が敬遠すると思うからできるだけ先に食べるようにしているだけだ。
でもそんな心遣いに配慮するのではなく、「今日も忘れないでね!」とでも言うように、早々とテーブルに準備する。
涙も出てしまう
湯を沸かすことだけはこだわっていた父親も、昨晩はなぜか湯を沸かしていなかった。
気が向かない時や面倒な時は、「しない」を選ぶことができる父親。
誰かがカバーしてくれるから、父親はいつも責任のない仕事しかできない。
母親がまな板を漂白したと妻経由で聞かされた。
「だから?」
こみちが定期的にしても、それが当たり前で、母親がした時は誰かに必ず報告する。
「漂白しておいたから」と。
こみちが思うことは、湯を沸かしたかどうか、漂白したかどうか、冷やご飯を食べかどうかではない。
生活をしていると、そんなことは全て当たり前にある。
父親や母親が放置した実家の片付けや庭木の手入れ、もっと本当にしなければいけないことは全く手つかずのままだ。
「アレ、どうなった?」
「忙しくてそれどころじゃないよ!」
そう毎月、母親が言う。父親は知らん顔。
そこを放置しておきながら、「湯」と「漂白」「冷やご飯」には気が回る。
だから涙が出てしまう。何を大切にしているのかと。
肝心のことは何もしないのに、冷やご飯はテーブルに出して「忘れないでね!」と無言のアピール。
「急かされているようで嫌な気がすると思わない?」と言えば、「そうかなぁ?」と答える母親。
でもため息ばかりつくようになった母親を哀れに思うのか、自業自得だと思うか。
そんな母親を見ても、手伝うことも代わろうともしないで、自分が望むことだけを始める父親。
そこまで徹底されているなら、もう何も言うことはできない。
「今日のキャベツの千切り、少し太めだなぁ…」
これでも我慢しているだぞと思っている父親は、目の前のおかずに少し不満顔。
母親は「塩っぱい!」と顔を歪める。
流石にこみちには言わないけれど、気にくわないと食べないで冷蔵庫に片付けられてしまうことだってある。
それでも毎日、誰よりも早く起きて料理していることは、親孝行だと思っている。
「〇〇さんの息子さん、親にクラウン買ってあげたんだって!」
「どこの〇〇さんだよ?」と言いたい。
親の財産をしっかりと受け継げる家系なら、クラウンだって買えるだろう。
これから両親の介護がさらに負担を増すというのに、どこを見て判断しているのかと思う。
クラウンは決して安い車ではないけれど、同居もしないでお金で解決できるとしたら、それは手間の掛からない選択だ。
意味のない時間を浪費していると思いながら、特に感謝されるでもなく、当たり前のように求められる同居ほど、苦しくて悲しい選択はないと思うけど。