「弱い人間」とどう向き合うべきかという話

 心を壊したこみちが考える「弱さ」とは

仕事と家族、自身の未来など、中高年という年代は考えることがたくさんあって、どれもお座なりにはできません。

しかし、あまりに広範囲で一気に降りかかると、どんな人間でも限界を迎えます。

こみちの場合、自身の未来を一旦無視して、当時の介護職員としての任務と同居する両親、さらに父方の叔母と、手を抜くことが許されない重圧を背負っていました。

以前にも紹介しましたが、こみち自身が心を壊した時、「心の弱さ」を実感することもなく、むしろ「ポキッと」折れてしまったような感じで、妻から指摘されるまで感情を失っていることにも気づきませんでした。

どこかに腰を下ろすと、そのまま人形のように項垂れて何もできません。

どれだけ時間、そうやっているのかさえ自分では気づかないくらい何もしないで抜け殻のようになったのです。

「ねぇ、ねぇ、大丈夫?」

「……」

どん底状態から回復の兆しを感じたのは、他人からの問い掛けに答えられるようになった時です。

それまで妻以外の人と話すことが難しく、自身の考えや気持ちを伝える意欲が乏しかったのです。

その頃から、自身の限界を超えるストレスに敏感となって、日常生活はおくれるけれど、不安やストレスが多い「仕事をする」ということに怖さがありました。

イラストや文章を好んで書いているのも、マイペースでできることで「仕事」に繋げたいと思っていたからです。

ここまでの経過を紹介して、こみち自身も現段階では「心の弱さ」とは何だろうと思います。

心を壊すと壊したことへの不安感が生まれて、それまで以上に慎重な生き方になるかもしれません。

発症して一年はゆっくりと心の回復最優先で生きて来て、その後は少しずつ短時間の仕事もするようになって、ランニングも始めました。

例えばランニングでいうと、始めた当時は1キロだって走れません。

でも今は10キロとか20キロもタイムを気にしなければ、走り切ることができます。

長い距離を走ると、やはり途中で苦しい時が来て、時には歩いて、時には立ち止まってと、それは心を壊してからの回復時期そのままですが、「最後まで走り切れた」という自信がこみちの気持ちが癒してくれたのです。

「30キロ? 行けるんじゃない?」

最近は距離よりもペースの方に関心があって、10キロ、20キロくらいが多いのですが、以前は40キロの距離を8時間くらいずっと走り続けたことがあります。

もちろん、途中で休憩もしますし、歩いたり休んだり、でも最後まで走り切ることで、自分と向き合うこと、壊した心に自信を持つことが段々とできるようになりました。

仕事をしている時でも、キツイと感じたり、できないかもと投げ出しそうな時はあります。

でも20キロ、30キロ走った時を思い出し、今の苦しさがどれくらいなのかと想像すると、「もう少しできる」と頑張れる自分がいます。

昨日も仕事が大変だったのですが、「今の自分にできないはずはない!」と思って、一つずつ向き合うことで最後まで辿り着けました。

「心の弱さ」とは何だろう?

今、10キロの距離なら、1時間くらいで走れるでしょう。

でもランニングを始めた頃、そもそも10キロの距離を走ろうとは思いません。

確か6キロくらいの距離がとても遠くに感じて、その距離に挑戦すると決めた前日、コースや休憩ポイント、途中で取る水分やお菓子など、いろいろ用意して、緊張でなかなか寝られなかったくらいです。

今の感覚なら、30分は厳しくても、40分は掛からないくらいの運動。

でも当時はど緊張するほどのことで、もしも「10キロ」だったら、「無理だよ」と言ってしまったかもしれません。

未経験者は誰もが緊張します。

なぜなら、初めてするのだから。

でも、少しずつ慣れてくれるとできることが増えて、当時は大変に思っていたことも苦ではなくなります。

つまり、「心の弱さ」とは、「自己判断で諦めてしまう気持ち」であって、できるか否かではないのかもしれません。

「心の弱さ」人は、面倒な気持ちが先に湧いて諦めることに慣れてしまっているのかもしれません。

まぁ、頑張れば報われるという時代ではないので、そもそも頑張れることにどれだけ価値を見出せるのかも重要にはなります。

まだ、完治したとは思っていませんが、当時と比較すればこみちはかなり回復しています。

でもいきなり今に至った訳ではなくて、少しずつ様子を確かめながら自身の向き合って来たからだと思います。

それを面倒だと思って、人生を諦めたくなかったというのもあったからでしょう。

例えば、同居している父親をみて、「心の弱さ人」だと思います。

しかし彼の場合、その弱さを克服しようとは思っていないようで、しかもそれでも幸せになることを望んでいます。

努力や向上心は辛いから望まない。でも、自分が望む幸福は手に入れたい。

三度の食事。オヤツ。テレビ。

そして、自分を少し特別で優れた人だと思われたい自尊心。

事実と合っていなくても、その場ではもの知りな雰囲気で話たりします。

でも根拠がある訳でもなく、そのために調べた訳でもなく。

もしかすると、こみちがあまりそっけない態度なのを、心よく思わないのかもしれません。

母親みたいに「すごいね!」とは言わないので。

自信たっぷりに話す父親の言葉を信頼している母親は、今でも不満を言いながら、何もしない父親に尽くしています。

それで両親が幸せなら別に何も言うことはありません。

ただ昨日仕事でとても疲れたこみちだったのですが、晩御飯のあと、家族分の食器を洗っている時に、リビングで大きな音でテレビを観ている父親の様子に失望感がありました。

自分の幸せは頑なに死守し、でも他人への労りには一切興味を示さない。

父親の場合、心が強いか弱いかではなく、未成熟なことに恥ずかしさがないかどうかではないかと思うのです。

最初は誰だってできなくて当たり前。

子どもが遊びや勉強などから経験を経て成長するように、大人だって初めて出会った時は緊張しながらも進んで行くのです。

「できない」と言ってしまうこともあるでしょう。

でも「できないから」と公言してしまうのはちょっと違います。

もちろんいきなり100キロの距離に挑戦するということではなくて、できることから始める気持ちが大切です。

子どもが20年で大人になるとするなら、中高年だって20年で様々な変化があったはず。

でもその間に何もしないでいると、ただ年を重ねただけになってしまいます。

成果が出なくても、あれこれと挑戦している人は生活ぶりからも伝わります。

「どうですか?」

「いやぁ、ボチボチです」

でもそれでいいんだと思うんです。

でも父親のようになってしまうと、心が強く弱いではなく、どんな話題を振るのかさえ躊躇います。

いつまでも何も始めない人。

そこに陥ってしまうことだけは、避けなければいけません。