いつまでも母親が自室に戻らない理由

 年を取ってなおさら

昔から手際は悪くないのに、仕事がなかなか終わらない母親。

玄関を掃いていると思ったら、いつの間にか歯磨きをしていて、洗濯物を干すために庭にいる。

一つずつ片付けていけたらいいけれど、玄関に箒が置いてあって、洗面所の電気がつけっぱなしで母親の使うコップがそのまま放置されている。

夜になれば、7時頃の晩飯が段々と遅くなり、今まで時間をずらして8時頃に降りていたこみちたちが行く時も、まだキッチンで何かをしている。

しかし、すっかり自分たちの食器を洗うことはしなくなり、当たり前のように放置するようになった。

もちろんそんな状況を父親も知っていながら、自分の担当ではないという態度で、テレビを観て寛いでいる。

実際にこみちたちの食事が始まると、なぜか母親は目の前に立ち、特に妻に向かって話始める。

内容は些細なことで、何合米を研いだということや、買って来た消臭剤の匂いの感想などだ。

母親が妻に話し掛ける理由があるとするなら、父親やこみちが母親との会話を真剣に聞かないからだろう。

誰かに聞いて欲しい。認めて欲しいという気持ちが根底にあって、匂いの感想を問うても割と男性陣から満足できるような感想が返って来ない。

特に今回のケースでは、家のどこか二ヶ所分の消臭剤らしく、その匂いを同じにしてしまったことに母親なりのこだわりがあったらしい。

しかし、その買った消臭剤はまだ開封されていなくて、しかも食事中に匂いが嗅がされるのもちょっとタイミングとしては遠慮したいところだ。

でも母親にすれば、匂いがどうというよりも、消臭剤を買って来たという自身の行動を妻に教えたかったようだ。

「そうなんですね!」

隣りで聞いていて、そう答えるしかできないだろうとも思いながら、仕事で疲れている妻には何だか申し訳なく感じてしまった。

「でね、でね。その店に買い物していた時に…」

もう10分くらいずっと母親が話しかけている。

こみちはすっかり食べ終わり、妻は話を合わせて相づちを打ち、食事を続けていた。

テレビばかり観ていないで、父親も何か母親に言ってくれたらいいのに。

でも父親は気づかないのか全くこちらに向かって何も言ってはくれない。

やっと妻の食事が終わり、妻に「あとは片付けるから、好きにして」と告げると「ありがとう」と言葉が返って来る。

こみちは家族分の食器を洗い始め、妻は適当に話を切り上げて洗面所に向かう。

母親はようやく自室に戻るのかと思ったら、またあっちにこっちにとあるべきことが残っていたようで、それからしばらくウロウロとしていた。

「ジャイアンツ戦? 大谷は?」

妻に話を聞いてもらい嬉しかったのか、勢いで父親に言う。

「エッ?」

「大谷。お父さん、耳大丈夫?」

「…」

そんな場面を見ていると、父親は父親なりに苦労していると感じた。

少し補足するなら、大谷選手がジャイアンツの選手だと母親が勘違いしているのではない。

テレビを見ている父親に「巨人戦を観ているのね。そうそう昼間に大谷選手が出場していたけど、あの時に彼は打てたの?」という話が、勝手に省略されて「ジャイアンツ戦?大谷は?」になってしまうのだ。

鍋に入っている味噌汁をお椀によそっている時に「味噌汁あるよ!」と言ってしまう母親。

「見れば分かるだろう!」と思うけれど、母親にすれば「味噌汁あるよ」はその存在を伝えるつもりではなく、シジミ汁だから美味しいよとか、ジャガイモがホクホクしているよと伝えたいのだろう。

でも出てくる言葉は、母親の気持ちとは全く異なり、いつもワード選びが同じなので、「凄い」とか「塩っぱい」とか、感覚的な言葉ばかり伝わってくる。

「何がどう凄かったのか?」

本来なら、母親の幼少期に、親がしっかりと聞いてあげればよかったのだろう。

そんな体験が、少なからず会話力を向上させ、自分の気持ちを伝えられるようになる。

それは父親にも言えるけど、責められると黙ってしまう。

「何を考えていたのか?」

そう問いただしても、父親は自分の気持ちを言葉で伝えることができない。

それは両親に共通することで、知らないと思ってしたことやするだろうと思って遠慮したことが、逆に行き違いになったりする。

日常的なルーティンにしてしまいたいことも、わざわざ疑って行かないと進まないので、結果的に時間ばかり掛かったり、手間が増えてしまう。

あちこちに中途半端に手を付けるのも、母親にすれば言葉で伝えられないからで、その様子から家族が集まって手伝ってくれたらと思っているのかもしれない。

でも父親は何もしないという結論を勝手に出してしまった訳で、母親がいつまでも仕事が片付かないのに手を貸してはあげない。

その意味では妻だけは母親のそんな気持ちに向き合っているのだろう。

「消臭剤ねぇ〜、どうだろう?」

「いいじゃないですか?」

もうこみちとしては、いちいち話を聞き出そうとはしたくない。

「お父さん、ご飯の盛りはこれくらい?」

「オオ!」

もうそんな会話をする気力など無い。

自分で食べるご飯くらい、自分でやってくれよ。という気持ちだ。

一緒にいても、世話ばかりしなければいけないことにこみちは正直、飽き飽きしていて、ことが進まない両親との時間が苦痛だ。

特に日常的なことは二人で解決して欲しいけれど、互いに考え方を変えられないから大変なのもちょっと分かる。

でも、それに付き合っていたら、プライベートな時間は全て両親の世話で消費されるだろう。

変われないのか、変わろうとしないのか。

例えば、家族会議を開いても、何も意見を言えない両親では、全てYES and NO方式にしないと決まらない。

「未来にどんなデメリットがあっても、今を優先する生き方を選びたいのか?」

何もしないでテレビを見ている父親の介護はちょっと嫌だ。

何か大切な時間を失っている実感しかないからだ。

こみちに取っても貴重な時間なのに、必要以上に時間を割いて父親や母親の面倒を見るために消費しなければいけないのは、今でもどうにか回避したいと思う。

でも、テレビを見ているしかできない父親にもういろいろ聞いても答えてはくれないし、母親に同じ質問をしても隣り近所の話が返って来る。

自分がそうしたいではなく、世間的な聞いた話に合わせたい母親。

子どもが親の介護をしていると聞けば、それが理想だと思う母親。

でもその家庭では、しっかりと両親が財産を残し、子どもたちは介護する分、仕事を減らせるのかもしれない。

でもそこまで話を理解しないから、「あの家では子どもが介護しているのよ」と言い出す。

話がいつも部分的過ぎて、しかも自分の気持ちや希望でもない話をする母親との会話は、どこか無駄に思えてしまう。

一般論を話しても、結局は答えが出ない。

「あのね、あのね」

母親はなかなか自室に戻らない。

でもやっぱり互いに溝がある。