両親が妙にはしゃぐけれどという話

 多分、何も根底が分かっていないのだろう?

晩飯を食べようと下に降りて来ると、なぜか両親が妙に元気ではしゃいでいました。

「明日は晴れるし、高くなるから水分補給必須だね!」

「最高気温は25度まで行くらしいぞ!」

「半袖でもいいかもね」

そんな両親の会話が延々と続く。

食事を始めても、なんだかんだでずっと会話が止まらない。

家族がみんな仲良く、ワイワイとしている雰囲気を作ろうとしているなら、こだわるポイントがやっぱり違っている。

確かに両親のことが嫌いなのではない。

でも、生き方が違うのだ。

それはどうすることもできない。

母親が頑張って作ってくれた晩飯も、美味しくないのではない。

でも、何かが違う。

ここで言えるのは、誰も嫌われたくて生きているのではない。

でも、嫌われたり避けられたりする理由に気づかないのだろう。

それはその瞬間にできることではなく、生き様のような部分がそれぞれに違っていて、だから互いに笑いたい時でも、時にそうさせてくれない思い出を呼び起こしてしまう。

時が過ぎると解決できるとか、何事も成るようにしかならないとか、言葉だけを追うと別の意味になってしまうけれど、でも結果が変わるというものではなくて、だからこそその準備段階でどれだけその先に起こる結果に納得できる自分で居られるかがポイントになる。

何もしないで失敗したら、そもそも挑戦ではないし、悔しさも感じないだろう。

でも成功するのは不可能で、もしも成功することがあったとしても、それは何かを失って得たものに過ぎず、ステップアップできたことにはならない。

例えば、合格のような成功は嬉しいけれど、努力して不合格になってしまうことも時に周りに勇気を与えることもある。

どれだけその合格に時間と気持ちを注ぎ込んだのか、周りもよく知っているからだ。

その意味でも、両親の生き方を見て、こみちが勇気や希望を感じられることが現時点ではない。

例えば趣味を見つけて没頭したとしても、それを見て自分らしさを楽しんでいると思える時期はもう過ぎ去っていて、過去にどれだけそう願い、伝えたのかと思ってしまう。

つまり、両親は今だけを見て生きている。

しかしこみちはそのずっと前からを辿り、今を生きている。

きっと両親の生き方を素直に受け入れられる時が来るとしたら、これから5年とか10年という時間が経過して、両親の生き方が過去から続くものに感じた時だろう。

だから、妙に明るくはしゃぐ両親を見て、何かいいことがあったのかではなく、食事中だから少し黙っていて欲しいと思ってしまう。

こみちが苦しい時も何も気づかない両親がいて、助けて欲しいということもできない姿を見て、それをどうにか乗り越えようと頑張ったこみちには、わざとらしく嬉しそうな両親を笑顔で迎えることなどできない。

「このままじゃ、家族が崩壊するよ」

それは脅しでも何でもなくて、ステージが変わってもう戻れなくなってしまうという予想を伝えたのに、それでもその時は何もしようとしなかった。

やっぱりあの時に気づかないといけなかったんだと思う。

多分、こみちの親でなかったら、そもそも縁を切っていたと思うし、この先の人生で関わりたい人たちではないと思ったからだ。

全ての過去を忘れてしまうことなどできるだろうか。

「どういうことか分かっているの?」

そんな大切なターニングポイントを逃してしまうと、やっぱり人はその時とは異なる未来を歩むしかないだろう。