なぜ、つまらないシナリオを描こうとするのか?という話

 昨夜の夕飯は両親とは別メニュー

こみちたち夫婦の夕飯は、冷凍になったラーメンとたこ焼きでした。

インスタントラーメンも手軽で美味しいですが、冷凍のラーメンはそれよりもずっと店で食べる感覚に似ています。

さらに久しぶりのたこ焼きも美味しかったです。

しかし、そこまでに至るまでは簡単ではありません。

夕飯は別々で食べようと両親に告げて、もちろん父親は一切料理に参加しないので、母親が父親の分も作ることに変わりはないでしょう。

逆に、こみちたち二人分を作らないで済むので、両親が普段は食べらられずに遠慮しているものがあるなら、それを食べてもいいはずです。

以前から夜ご飯の時間を両親とずらしているのは、父親が妻の帰宅するまで待てなかったから。

空腹になるとイライラするという性分で、「まだなのか?」と五月蝿く騒ぐので、別にみんなが揃って食べる理由もないし、逆にそこまで待たれてもということから別々に食べることがスタートしました。

最近の母親が作る料理は、スーパーマーケットで出来合いのおかずを買うことも多く、こみちが毎朝作る料理パターンと似ていて、サラダと目玉焼き、ウインナー、スクランブルエッグのような感じです。

ウインナーが市販の唐揚げになったり、スクランブルエッグがマカロニサラダなど、やっぱり出来合いのもので済ませることが増えています。

こみちにすれば、出来合い品は簡単ですし、疲れている時や時間がない時など、使い勝手もいいので便利だと思っています。

でも、母親の考え方は特長的で、先ず父親は一家の長として何もさせてはいけないというスタンスがあって、だから仕事もなくテレビを一日中観ているだけだとしても、料理を作る人になるということはありません。

なので、作るのはそれ以外、流れとしては母親以外となるとこみちか妻ということでしょう。

しかし、本当にそうするしかないのかというと、父親何もしない、できないままということは、母親に何かあったら父親はどうやって自分の食事を食べるのでしょうか。

以前、こみちたち夫婦が休みの日、母親が仕事に出掛ける時に決まって「お父さんのお昼よろしくね!」と言って出かけようとしていました。

つまり、休みの日なのに、日中に夫婦で出掛けるよりも、父親の食べる昼食の準備を忘れないでということです。

だったら、自分の食事は自分で何かすればいいし、母親がどうしても父親を大切にしたいのであれば、その昼食を事前に作っておけばいいはずです。

「そんなの知らないよ!」

その件で何回も言い合い、最終的には母親が折れましたが、もしも今でも昼食の準備まで気にしていたら、ストレスばかり増していたでしょう。

なぜなら、作るだけではなく、料理をテーブルに並べて、父親のご飯を茶碗に盛り、「お父さん、準備できましたよ!」とテレビを寝転んで見ている父親に声をかけ、「おお、分かった」とさも当然のように着席し、食べ終えてもそのまま席を離れ、その片付けまでをこみちたちがしなければいけません。

そんな負担、当たり前ではないでしょう。

だって、もしも在宅介護が始まって、父親のオムツ交換でもすることになれば、「本当にすまないな」という感謝ではなく、「すぐにしてくれよ。気持ち悪いんだから」という態度になるでしょう。

してもらえることが当たり前になると、人はどうしても立場を勘違いして、感謝さえ忘れてしまいます。

母親はふと父親の優しさに不満を漏らしますが、そうさせてしまっているのは母親本人だという自覚はありません。

ある日の朝、父親が起きて来た時に「今日は朝から肩が痛い」と言い出しました。

結果、母親に言われて渋々しているゴミ出し作業をすっぽかします。

「ゴミ出しは?」

母親が1つにまとめるまでしてくれたゴミ袋を近くのゴミ捨て場まで運ぶだけの作業です。

「もう、こっちは肩が痛んだぞ! それくらいやってくれよ!!」と駄々をこね始めました。

その時です。

「モォ〜、仕方ないなぁ」と言うなら、母親は父親の不出来を全て黙って背負えばいいのです。

しかし、そうさせていながら、「お父さんは何もしない」と愚痴るから面倒が増えるのです。

「できない」と言われたら「じゃあ、こちらもしないよ! みんなだって我慢しながら家事しているだから」と告げればいいだけで、それ以降、食事の準備から洗濯まで一度父親の分を外してみれば、父親だって我慢を覚えるでしょう。

これは意地悪とかではなくて、高齢者世帯ではとても重要なことで、夫婦のどちらかが先に亡くなれば、残された人は全てを自分でしなければいけません。

タイミングよく子どもたちが助けてくれるということもあるでしょう。

しかし、大切になる大きな事柄に寄り添うとしても、毎日の食事や洗濯掃除までを子どもたちが負担し、さらに介護までになれば、子どものプライベートは無くなってしまいます。

例えば介護が必要になる両親の子どもたちは、年齢的に40代以降。

つまり健康寿命を考えると、彼らだってあと30年くらいしか時間的な猶予はありません。

しかも、偶発的な病気や事故、ケガに見舞われれば、さらに時間的自由は制限されます。

にも関わらず、例えば母親の父親に対するこだわりだけの理由で、父親の食事を用意することにこみちたちが自由な時間を奪われていいとはちょっと思えません。

体調を崩してベッドから起きられないと言うやむを得ない事情ではないのですから。

救急車でも呼ばないといけないレベルなら別ですが、肩が痛いと言う理由で何もできないなら、さっさとゴミ出しして寝ていればいいでしょう。

ゴミ出しはしないけど、ちゃっかりと朝ごはんは誰よりも先に食べてしまう父親。

付き合いきれません。

母親は父親が家族の中で誰よりも偉く、そして敬われる存在だと思っています。

それ自体は悪いことではありませんが、じゃあ父親は決断を求められた時に家族を守り抜いたでしょうか。

結局はそこで、急に大人しくなってしまい、存在感を消した父親の態度に「出てよ!」と促しても一歩も動けない様を見て、それこそ幾つも大変なことを乗り越えて今があります。

なのにその時のことはすっかり忘れて、母親はいつまで父親を一番に考えたがるのですが、それはもう母親だけの想いに留めて欲しい話です。

老いた両親の世話を放棄したいのではなく、世話を望むならそれに見合う生き方をして欲しいのです。

目玉焼き一つできないでしょうか。

そんなことはありません。

父親のために何かしても、感謝されることもないし、当たり前が増えるだけです。

やっぱり、もう無理しかない母親の考えるシナリオです。