「 して欲しいこと」が違う!?
こみちが両親に求めるのは、叔母が介護施設に入った時に慌てて大変だった経験を繰り返さないことだ。
簡単に言えば、終活に向けた準備と老後の生き方を再確認すること。
独り身だった叔母に認知症状が現れて、もう一人で判断するのが難しいと分かった時に、「おばちゃん、これはどうする?」と聞いて決めることができなくなった。
詳しい話は割愛するが、地域包括支援センターや役所の福祉課など、仕事の休みの度にアドバイスをもらい叔母の将来を決める必要があった。
多分、そのやりとりの中で、こみちは両親の態度が許せなかったと思うし、さらに言えば、自分たちだけは「違う」という変えられない意識に距離を感じた。
このブログで、両親が1ミリとして譲ってくれないことに触れている。
彼らに優しさないのではない。
「して欲しいこと」をしてはくれないのだ。
例えば、空き家同然となった実家は、両親がいなくなたらどうなるだろうか。
単純に相続という形でこみちの資産になる。
「じゃいいことじゃないか?」と思われる人もいるだろう。
しかし、庭木などは手入れが欠かせないし、放置された家は近所迷惑にもなりかねない。
テレビを見て、ご飯を食べて、気ままに「これ食べるか?」という優しさがあったとしても、それでいい関係が保てるはずはない。
例えば、家財道具一式を特に分別しないで全て業者に撤去してもらうには、ワンルームマンションでも20万円以上掛かるし、庭木のある一戸建てならさらに金額が嵩む。
まして、手入れが簡単なコンクリート化や賃貸化という手段もない訳ではないが、築年数の経過した家をリフォームする予算も用意出来そうにない。
何より、両親がいずれ世話になる介護施設の入所金に充てるとしても、それまでの処分にかかる手間を自分たちで背負って欲しいのだ。
叔母の時のように、不動産屋との対応までするのは、もう勘弁して欲しいし、あとの時にどれだけ大変だったのかも知っていたはずなのに、「熱さ過ぎれば…」で、肝心なことは全部人任せな性格は両親共に変わらない。
「スーパーでアイス買って来たよ!」
そんな優しさをどれだけ受けたとしても、叔母の時のようなことになれば、2ヶ月も3ヶ月も必死で後処理に終われ、数十万円単位の現金も必要になる。
しかも言ってはいないけれど、介護施設に入ったとしても日々の洗濯物や時々の訪問など、家族は手放しできるものではない。
週に一回、洗濯物を施設まで取りに来ていた家族を知っているが、勤め人なら休日にそれをする。
決して簡単なことではない。
叔母の時に両親は匙を投げた。
とてもできないと。
そして、当時は勤め人だったこみちが、休みの度に駆けずり回り、その結果、メンタルを壊した。
壊した代償として、叔母の件はどうにか一歩を踏み出せたが、それをずっと見て来たはずなのに、両親は自身の終活を何もしてくれない。
冷たいこみちの態度に、もしかしたら「親不孝」と思っているかもしれない。
もっと世間的に優しい子どもなら、親に車や旅行をプレゼントしているとでも思うのだろう。
例えば、日常的に両親との同居を拒絶し、代わりに旅行のプレゼントをするという話なら、その方が楽だとも思う。
なぜなら、両親の誕生日には、プレゼントや寿司、ケーキと用意し、さらに時間まで使うのを考えたら、一泊二日の国内旅行くらい安いものだ。
さらに老後の世話も回避できる立場なら…。
旅行という部分だけを見て、同居している今を不幸だと思うのはやめて欲しい。
仕事をしていない父親は、朝から晩までリビングを占領し、大音量でテレビをつけている。
夕飯の食事でダイニングにいても、リビングから聞こえる音声はとても耳障りで、聞きたくもない洋画系の騒がしい悲鳴や銃声を聞かされる辛さを理解しくれない。
「食事の時だけは番組を選んでくれない?」
そんな提案もして来た。
しばらくは覚えていて、チャンネルを変えてくれたりもした。
でも、食事時間が父親の想定を超えたら、いつの間にかチャンネルが元に戻り、悲鳴と銃声に変わる。
俺の我慢はここまでだと。
その後、使い終えた食器洗いやシンクの掃除などをする間は、聞きたくない音声えお無理に聞くしかなかった。
ストレスでメンタルを壊し、対人関係に不安を抱えたあの頃でさえ。
父親は昔から、目ざといところがある。
パッと良いところだけを先に取ってしまうのだ。
でもそれは、周りがそうできるようにしているだけで、ちょっと工夫されると父親のポジションは隅っこになって来た。
つまり、父親を助けてくれる人が母親以外にはいないということ。
こみちも人のことは言えないが、父親と違うのは自分だけ得になることはしない。
でも分かったことは、父親にしてもこみちにしても、人間的な本質は子ども時代のしつけで決まる。
しつけから何を学ぶのか、そして社会に出てさらに経験が加わり、人格になった時に、その人のポジションが出来上がる。
上手く行かないのではなく、上手く行くように生きていなかったということだろう。
それに気づいた時に、やっぱり両親が1ミリとして譲ることができないことに苛立つし、こみち自身が同じようにならないように経験として活かしたい。
本当の意味で優しさを理解してくれたら、もっと楽しく生きられるのに、何かパッと見た時に無くなっているのはいつも先に抜き取った形跡ばかり気づく。
毎日、両親の愚痴を書いていることにも辛さを感じる。
こんな良いことがあったという話をしたいのに、いつも受け身で、その癖目ざとく先に取ってしまう姿を見れば、みんなで食べようと思うこともなくなってしまう。
「安かったの!」
割引きシールが貼られた菓子パンを買って来た母親の口癖。
「美味しいそうだったの!」ではない。
それこそ価値観の違いということだと思うけれど、食べていると寂しくなるし、虚しい。
「もう買って来なくて良いよ!」と理由も付けて説明していたけれど、安いものを見つけて買ってくるというのは母親の幸せで、それを誰かに提供することも喜びになっている。
受け身で自分だけ得をしたい父親とは相性もいいけれど、「安い」という言葉の詰まったパンを食べて嬉しくならないこみちには母親の優しささえ重いだけだ。